地味なようで輝いた2026年のロッシーニ・オペラ・フェスティバル(下)

熱唱するフアン・ディエゴ・フローレス
熱唱するフアン・ディエゴ・フローレス(イヴァン・ロペス=レイノソ指揮 ボローニャ歌劇場管弦楽団、ヴェンティディオ・バッソ劇場合唱団)

先月に続き、8月にペーザロで開催されたロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)をリポートする。今年はフアン・ディエゴ・フローレスのROFデビュー30周年を記念するコンサートが、オペラ3演目と並ぶ目玉で、早々に完売した。歌手のリサイタル「コンチェルト・ディ・ベルカント(ベルカント・コンサート)」も聴き応え抜群。アカデミア・ロッシニアーナの修了公演「ランスへの旅」も例年通り2回開催され、今年は4人の日本人が出演した。

フレージングはむしろ洗練されたフローレス驚異の歌唱

フローレス(テノール)が1996年、急遽代役で「マティルデ・ディ・シャブラン」のコッラディーノを歌い、ROFにデビューして30年になる。それを記念してコンサート「Flórez 30」が行われた(アウディトリウム・スカヴォリーニ)。前半はロッシーニで、「試金石」のジョコンドのレチタティーヴォとアリアに始まり、「ラ・チェネレントラ」「ギヨーム・テル」と続いた。以前と同じ柔らかさだとはいわない。だが、歌い回しが自然で気品が漂い、アクートはなお輝かしく、53歳にして技巧的な曲をこの水準で聴かせるのは驚異だと思われた。

後半はマスネ「ル・シッド」、グノー「ファウスト」、オッフェンバック「ホフマン物語」、そしてドニゼッティ「連隊の娘」。「ファウスト」の柔らかいエレガンス、「連隊の娘」の柔軟な適応力と安定したアクートなど、相変わらず傑出している。フレージングはむしろ以前より洗練度が高まっており、紛れもなく大歌手の歌だった。

健在ぶりを示したフローレス
健在ぶりを示したフローレス

ロッシーニ劇場でのベルカント・コンサートは3つ聴いた。17日は「絹のはしご」に出演したデイヴ・モナコ(テノール)で、3月に新国立劇場で披露した「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオでは、彼の持ち味は十分には測れない。この日は1曲目から、最難曲とされる「ゼルミーラ」のイーロのアリアに挑み、アジリタを交えた激しい上昇と下降にハイDを何度も加え、見事に歌い切った。力強い声が柔らかく着地し、極上の弱音につながる手練れのフレージングをこなし、ニュアンスも豊か。ロッシーニの新旧の歌曲も表情に富み、「セビリャの理髪師」の伯爵の大アリアも、前半と後半の力強さと中間部の甘さのメリハリが巧みで心に迫る。若きロッシーニ・テノールの最右翼である30歳。キラキラと泡立つようなクラウディア・フォレージのピアノも歌を引き立てた。

デイヴ・モナコ(右)とクラウディア・フォレージ

モナコにインタビューすると、「イーロのアリアは、たしかに難しく高音も多いですが、ロッシーニは歌手が音を的確にねらうのを助けるように曲を書いています。むしろ難しいのは、作曲法に助けられず、自分で歌いこなすべき『アルジェのイタリア女』のリンドーロ」だと語った。また、「若いころの歌曲は美しく歌いやすい一方、成熟してからの歌曲は、声楽的にシンプルでも音楽的にははるかに難しく、各フレーズに意味をあたえないと聴衆は眠ってしまう」とのこと。コンサートでどの曲もそれぞれ映えた理由がわかった。

20日は「コリントスの包囲」のマホメ2世、アドリアン・サンペトリアン(バス)。ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、チマローザ、ドニゼッティ、ベッリーニ、メンデルスゾーンにロッシーニを加え、音楽史に沿って様式を踏まえながら、言語も独英伊仏と織り交ぜ、考え抜かれた知的な歌唱を聴かせた。ジュリオ・ザッパのピアノが見事に寄り添った。

アドリアン・サンペトリアン(右)とジュリオ・ザッパ
アドリアン・サンペトリアン(右)とジュリオ・ザッパ

22日はやはり「コリントスの包囲」でイエロを歌ったシモン・オルフィラ(バス)。成熟した声と表現で、深いヴェルディを歌いつつ、ロッシーニでは強弱の間を自在に行き来して柔軟なベルカントを聴かせる。ピアノは林直樹で、めきめきと頭角を現しているこの若手は、オルフィラに寄り添いつつ変幻自在で、鼓動が生々しい。間に挟んだ2曲のリストは聴き手に強い印象を残す鮮やかさだった。

シモン・オルフィラ(右)と林直樹
シモン・オルフィラ(右)と林直樹

純度の高い声で高貴に歌われた東山桃子のコリンナ

アカデミア・ロッシニアーナの修了公演「ランスへの旅」は、イタリアとロシアの混血の指揮者シエヴァ・ヴォルザックがすばらしい。軽やかに沸き立ちながら切れ味鋭く、同時に柔らかいという、ロッシーニを聴く愉悦感に浸れる音楽づくり。名前を記憶に留める価値がある。両日ともフォルヴィル伯爵夫人を歌ったカザフスタン出身のアジザ・オマロヴァの名前も、覚えておいたほうがいい。声に芯と厚みがあってよく広がりながら、どの音域も安定して、超高音もよく響き、軽やかでもある。なにより歌にオーラが漂い、20代前半とは信じがたい。近い将来、世界的な存在になるに違いない。

「ランスへの旅」でフォルヴィル伯爵夫人を歌ったアジザ・オマロヴァ(中央)。右端は小野田佳祐

「ランスへの旅」での日本人の活躍も特筆すべきことだった。16日は富永果捺子(ソプラノ)がコルテーゼ夫人、阿部泰洋(バリトン)がドン・アルヴァーロを歌い、19日は東山桃子(ソプラノ)がコリンナ、小野田佳祐(バリトン)がドン・アルヴァーロを歌った(富永は19日にデリア、阿部は19日、小野田は16日にアントーニオも演じた)。

みな将来の大歌手に伍して存在感を示したが、なかでは事実上のヒロインであるコリンナを歌った東山が傑出していた。ハープの伴奏で歌う2曲のアリアは、柔らかく純度が高い声で自然に満たされ、女流詩人のための高貴な旋律が、制御された弱音も相まって気高く紡がれた。

「ランスへの旅」でコリンナを歌う東山桃子(左)
「ランスへの旅」でコリンナを歌う東山桃子(左)
Picture of 香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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