前回の項の最後に写真を載せた、ブルックナーの「第8交響曲」の世界初の全曲録音、オイゲン・ヨッフムの指揮したレコードを、「あたらくしあ」へ聴きに行った。1949年2月以前(推定1948年後半)録音の由で、78回転のSPレコード11枚組21面(1面は空白)たっぷりに吹込まれたセットである。手巻蓄音機の名器クレデンザで再生されたその音は、古色蒼然の趣もあったが、独特の雰囲気があった。
店主の久保田さんは、ほぼ4分ごとにカウンター内の厨房から飛び出して来て、SPレコードを20回もかけ換えてくれた。これは大変な仕事だ。私も昔、「悲愴」や「田園」が5枚組、「運命」が4枚組、「第9」が8枚組(もちろん、いずれも両面)というのを体験しているが、「11枚組」ともなると……。もっとも、ビーチャム指揮のヘンデルの「メサイア」や、アルバート・コーツ指揮のバッハの「ロ短調ミサ」は、なんと18枚組だったそうだが。
そのヨッフムの「ブル8」の全曲SPで面白い(?)のは、第1楽章の前半に20小節の欠落があることだ。面の変わり目のところで、そこが抜けているのである。これは、久保田さんが米国ブルックナー協会から知らされた情報によれば、意図的なカットではなく、エンジニアがうっかりそこを抜かしてプレスしてしまったらしい、ということなのだそうだ。奇怪な話だ。では、プロデューサーも、ヨッフムさえも、出来上がったレコードを全然聴いていないのかね、ということになるのだが……もっとも、聴いていたとしてもそこは面の変わり目。お喋りでもしていれば、「飛んだ」ことに気づかぬこともあるだろう。いずれにせよこれは、市場に出た商品なのだから、「大事故」にあたるのは間違いない。
とはいえ、こういうことは、よくあるようである。名プロデューサーだったジョン・カルショウが「ラインの黄金」全曲を録音した時、テープをつないでみたら8小節抜けていたのが判明し、慌てて補充して事なきを得た、という話がある(注)。国内の例では、某レコード会社がワルター指揮の「幻想交響曲」のSPをLP化した際、第3楽章でSPレコードのひとつの面をマルマル抜かしてつないでしまったことがあった(それを最初に発見してレコード会社に電話したのは、あの宇野功芳氏だったとか)。また、カラヤン指揮ベルリン・フィルのブラームスの「第3交響曲」の、市販されていた初期LPで、第1楽章のある個所でどういうわけか8分音符が一つ抜けていることに、私の知人のある演奏家が気づいた。私も聴いてみたが、これは「なるほど、そう言われてみれば」と思う程度のものだった。もうひとつ、ある有名でない指揮者が録音したベートーヴェンの「第9」でも、第1楽章で音符が一つ抜けていたことがある。これは私が気づき、発売レコード会社に知らせたのだが、「いいじゃないですかそのくらい」で片づけられた。一方、業界で盛り上がった事件は、小澤征爾指揮サンフランシスコ響の「新世界交響曲」の見本盤で、第3楽章の開始部分、反復されたスケルツォ主題の冒頭でティンパニだけが何故か見事に欠落していた件だろう。——こういう「事故」のレコードは、貴重なので、私は秘蔵している。
他人のことばかり言ったが、私自身もFM東海(FM東京の前身、東海大学FM放送局)の駆け出しディレクター時代には、「事故」も時に起こしたものだ。ある時、深夜の生放送で、レコードの回転数を間違えてかけてしまったことがあった。番組では、皆川達夫氏の解説のみ予めテープに録っておき、レコードは「ナマ出し」するという方法だった。皆川氏の「ではこの3曲、続けて聴いてみましょう」というテープを再生した後、私がレコードを回す。何だか変だ。音が甲高い。見ると、ターンテーブルが33回転でなく、45回転で回っているのだ。前の番組の担当者が、45回転のレコードを使い、そのままにしておいたらしく、私もそのあと、確認を怠っていたのだった。ままよ、曲は「13世紀ドイツ農民の歌」という、誰も知らないような曲で、しかも真夜中の1時過ぎだし、ちゃんと聴いている人などいないだろう、と実に言語道断な決断を下し、曲をおもむろにゆっくりとF.O.(フェイドアウト)し、それからターンテーブルを33回転に切り替え、何食わぬ顔をして、その曲をもう一度初めからかけたのであった。すると、2,3日してから、ひとりの聴取者からハガキを頂戴した。それには、こう書いてあった。「3曲続けて、という解説でしたが、4曲かかっていたようです。もう一つの曲の題名を教えてください」。
どれも、昭和の時代の話です。
(注)「ニーベルングの指環」(ジョン・カルショー著、山崎浩太郎訳 Gakken刊)
とうじょう・ひろお
早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。










