初開催から150年の節目を迎えたバイロイト音楽祭のリポート第2回は、これまで同音楽祭では取り上げられてこなかったリヒャルト・ワーグナー初期の大作「リエンツィ」の新制作上演について報告する。(宮嶋 極)
【歌劇「リエンツィ」新制作について】
「リエンツィ」がバイロイト祝祭劇場で上演されたのは150年の歴史の中で今回が初めて。理由は諸説あるが、この作品が当初はパリでの上演を目指していたことでグランド・オペラのスタイルに寄せた作風であり、後の楽劇に通じるワーグナー的要素が希薄であること。その出来をワーグナー自身が疑問視していたこと。さらに熱狂的なワグネリアンであったヒトラーがこのオペラを観て政治家になる決意をしたという逸話は有名であることも少なからず影響しているのかもしれない。ちなみに「リエンツィ」の初稿手稿譜は1945年4月のベルリン陥落の際にヒトラーとともに総統大本営で灰燼(かいじん)に帰したとされている。
バイロイトの〝掟〟のようなものはリヒャルトの死後、総裁の役割を担った夫人のコージマ・ワーグナー(リストの娘)の時代に大枠が定まっており、以来、「さまよえるオランダ人」から「パルジファル」に至る10作品がバイロイトの正式演目として演出を替えながら上演が繰り返されてきた。
今回、現総裁のカタリーナ・ワーグナーは150年を記念して今年限定の特別プログラムとしてその封印を解いたわけで、バイロイトの歴史に新たな1ページを刻むものとして注目を集めた。
ノーカット版と伝えられていたが、実際には第2幕前半の各国大使の謁見やその後のバレエの場面の一部などがカットされており、正味上演時間は従来の全曲版に比べて約45分短い3時間45分であった。また、第5幕の「全能の神よ」で始まるリエンツィの祈りの歌が第4幕冒頭に移されていた。
【「リエンツィ」の演出について】
演出を担当したのはハンガリー出身のアレクサンドラ・セメレディとマグドルナ・パルディトカのユニット。2022年からザールラント州立劇場で「ニーベルングの指環」を演出し、注目を集めた。今回の「リエンツィ」では設定を現代に、リエンツィら主要な登場人物は民主主義体制の政治家とその支持者や有権者などに読み替えている。市民は画一的な集合住宅に住み、各部屋の大画面テレビにはニュースや経済指標などが映し出されている。彼らは皆、スマフォを手にしており会話(チャット)や情報収集をSNSで行っている。真偽が定かではない情報が容易に拡散され、選挙結果にも大きな影響を及ぼす。第3幕、アドリアーノがSNSで偽情報を拡散し、法の支配による平和を訴えるリエンツィを失脚に追い込んでいく。まるで今の世界、とりわけ日本の政治状況を見ているかのようで、興味深かった。リエンツィの祈りを第4幕に移行したことで、SNSポピュリズムに対して神への祈り、つまり正義(道理)は通用しない、という流れに読み取ることが出来、セメレディとパルディトカの問題提起によって「リエンツィ」は150年目のバイロイトにおいて初めて輝きを放つに至った。
演出のアレクサンドラ・セメレディとマグドルナ・パルディトカ=Bayreuther Festspiele ホームページから
また、序曲の間にリエンツィと妹のイレーネの近親相姦を想起させるような無言劇があり、2人の間に生まれた男児(元ネタとなった同名の小説に登場するリエンツィの弟との意見も)が死亡する。この子の亡霊?が本編にも何度か登場しリエンツィを悩ませる。亡霊の手にはキリストが磔(はりつけ)にされた際にできた傷のような跡もあり、この意味するところが今ひとつ分からなかった。
また、第2幕のバレエのシーンはバイロイト祝祭劇場のプロセニアムのようなセットの中で、ワーグナー作品の登場人物たちが次々と現れてユーモラスな無言劇を繰り広げた。極め付けは長いワーグナー作品の休憩時、劇中の観客たちがトイレに殺到し、昨今の猛暑で飲み物を求めて売店に列を作るなどの寸劇もあり客席から笑いを誘っていた。事実、近年の猛暑のためエアコン設備のない祝祭劇場は低温サウナのような暑さであり、連日、体調を崩して途中で運び出される人が続出していた。
【「リエンツィ」の音楽について】
指揮はナタリー・シュトゥッツマン。彼女がバイロイトでオペラを振ったのは23年と24年の「タンホイザー」再演(トビアス・クラッツァー演出)に続いて2作目。筆者は23年に聴いているが、今回は長足の進歩を遂げているように感じた。23年の時は音楽の流れが一本調子になる傾向があったが、今回はテンポを柔軟に加減速しながら、表情豊かな音楽作りを行っていたからだ。題名役のアンドレアス・シャーガーをはじめとする強い声を持つ歌手による歌唱と頻繁に登場するコーラスの強唱をオーケストラの演奏に自然な形でシンクロさせ、バランスを保ちながら一体感を失わずに聴かせていたことは彼女のオペラ指揮者としての進化を示すものであった。
また、有名な序曲の冒頭、トランペットのA(ラ)のロングトーンの後、18小節目からヴァイオリンによって奏でられるリエンツィの祈りの旋律が16小節にわたってチェロ・バスだけで演奏され、ヴァイオリンに受け継がれていくのは初めて聴いたバージョンであった。
歌手陣ではシャーガーの強く輝かしい声による熱唱が圧倒的な説得力をもって聴衆に訴えかけてきた。合唱とオケが最強音で鳴っていてもこれらの厚い音の壁を突き抜けて劇場の隅々にまで響きわたる彼の声はまさにヘルデン・テノールを聴く醍醐味を感じさせてくれるもの。今回はリエンツィが苦悩する場面での繊細な表現も聴かせるものがあり、終演後には客席からひと際大きな喝采とブラボーが沸き起こっていた。
大きな喝采を集めたという点ではアドリアーノ役のジェニファー・ホロウェイも対立する実父(コロンナ)と恋人イレーネの兄(リエンツィ)の板挟みで苦しむ心情が歌唱・演技両面でリアルに表現されていた。イレーネのガブリエラ・シェラー、コロンナ役のアンドレアス・バウアー・カナバス、オルシーニを演じたミヒャエル・ナジといった歌手たちのパフォーマンスも充実しており、主要キャストすべてにデコボコを感じさせないステージは記念の特別演目にふさわしい水準の出来であった。
最後に合唱にも触れておきたい。多彩な表現と広いダイナミックレンジを誇るバイロイト祝祭合唱団の底力が存分に発揮され、観客・聴衆を満足させるドラマティックな仕上がりに大きな役割を果たし、公演の成功に大きく貢献していた。
公演データ
【バイロイト音楽祭2026】
◎歌劇「リエンツィ」
8月8日(土)16:00 バイロイト祝祭劇場
指揮:ナタリー・シュトゥッツマン
演出・舞台美術・衣装:アレクサンドラ・セメレディ、マグドルナ・パルディトカ
照明:ベルント・ガラッシュ
映像:レオナルト・コッホ
ドラマトゥルギー:マルクス・カイゼル
合唱指揮:トーマス・アイトラー=デ・リント
コーラ・リエンツィ:アンドレアス・シャーガー
イレーネ:ガブリエラ・シェラー
ステファノ・コロンナ:アンドレアス・バウアー・カナバス
アドリアーノ:ジェニファー・ホロウェイ
パオロ・オルシーニ:ミヒャエル・ナジ
枢機卿ライモンド:ヴィタリ・コヴァリョフ
バロンチェッリ:マルティン・コッホ
チェッコ・デル・ヴェッキオ:ミヒャエル・クプフアー=ラデツキー
平和の使者:ヴィクトリア・ランデム
バイロイト祝祭合唱団
バイロイト祝祭管弦楽団
みやじま・きわみ
放送番組・映像制作会社である毎日映画社に勤務する傍ら音楽ジャーナリストとしても活動。オーケストラ、ドイツ・オペラの分野を重点に取材を展開。中でもワーグナー作品上演の総本山といわれるドイツ・バイロイト音楽祭には2000年代以降、ほぼ毎年訪れるなどして公演のみならずバックステージの情報収集にも力を入れている。










