リヒャルト・ワーグナーが楽劇4部作からなる「ニーベルングの指環(リング)」をツィクルス上演するために自ら企画し専用劇場まで建設して、創設したドイツ・バイロイト音楽祭。今年はその初開催から150年の節目を迎えた。メモリアル・イヤーとなった同音楽祭のリポート、初回は生成AIによる映像を駆使して上演された「ニーベルングの指環~リング10010110~」について報告する。(宮嶋 極)
【AIを使った舞台について】
「ニーベルングの指環~リング10010110~」は演出家を置かず、舞台装置も使用しないなど、通常のプロダクションとは異なる今年限定のプログラム。
ドルトムント劇場の演劇・デジタルアカデミーのディレクター、マルクス・ロブスがキュレーターの肩書で中心となり、同劇場関連のデジタル系のスタッフらがステージングを担った。10010110はデジタル分野で使用される2進法で〝150〟を表わしたもの。
舞台装置の代わりにAI映像を使用するというのは実験工房を標ぼうするバイロイトらしい意欲的な試み。50年前、100周年の時にお披露目されたパトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮による「リング」は当初、厳しい批判にもさらされたが、半世紀が経過した今ではドイツを中心に主流となっている読み替え演出、いわゆるレジー・テアターの原点ともなった名プロダクションとして評価が定まっている。半世紀が経過して〝読み替え〟が行き着くところまで行った感もあるオペラ上演の新たな方法を模索する上ではAI活用による読み替えない舞台にチャレンジした意義は大きい。
数千点の画像・映像を基にAIによって音楽に即応する形で生成された映像は過去のバイロイトにおける「リング」などの舞台風景、バイエルン国王ルートヴィヒⅡ世やヒトラーら同音楽祭と関係の深かった歴史上の人物、イメージ的な景色や生物などが次々と現れては消えていくもの。オールド・ファンには懐かしさを感じる面もあったが、もろ手を挙げて賞賛できるものではないことは、毎回終演後に客席から沸き起こった大きなブーイングからも明らかであろう。
筆者が感じた疑問点は以下の通りである。
① ステージの前から3分の1あたりと、さらに後ろに計2枚の紗幕を張りそこにAI映像を立体的に投影。歌手は2枚の幕の間で歌うことで、映像と一体化する仕組みとなっていたが、映像が歌手を見えにくくしていた。
② 紗幕とはいえ、歌手の声が遮られて減衰した状態で客席に届く。別の演目にも出演したミカ・カレスらの声が「リング」の時よりもクリアに聴こえたことでも減衰は明らかだった。また、紗幕があることで、歌手が常にステージ後方で歌わざるを得なかったことも音量のもの足りなさに拍車をかけていた。
③ 同様のことはオーケストラの聴こえ方にも当てはまる。ピットから湧き上がるオケの音がピットを覆うシェルターに反射してステージ上の歌手の声とブレンドされて客席に届くバイロイト祝祭劇場ならではの特別なサウンド効果が音量も含めて損なわれていたようにも聴こえたのは筆者だけではないはずだ。
④ 投影される映像が秒単位で目まぐるしく変化していくので、音楽への集中が途切れがちになる。
バイロイトでは初の試みなので、多くの観客を満足させる仕上がりではないことは仕方ないが、これを契機に今後、同様の取り組みが充実・発展していくのか注目したい。
【クリスティアン・ティーレマンの音楽作り】
指揮は2000年以降、バイロイトにおける音楽面での大黒柱、クリスティアン・ティーレマン。彼は2006~10年に上演されたタンクレート・ドルスト演出の「リング」を指揮し高評価を得ており、今回が同音楽祭での2度目の「リング」となった。その音楽作りは前回とはかなり異なっていた。以前のようにテンポ・ルバートや〝作為的な溜め〟を多用することはせずに、音楽の流れを重視したアプローチが際立った。歌手とオケが混然一体となって造り上げる音楽空間はダイナミックさと繊細さを兼ね備えたもので、時にうねるような大きな流れを創出させていたのは見事であった。4部作すべてにおいて終演後はどの出演者よりも盛大なブラボーと喝采を集めていた。
紗幕による音量の問題がティーレマンの耳にも届いたのであろうか、「神々の黄昏」ではギア・チェンジしたかのようにオケを大きく鳴らし、紗幕が影響した音量面での不足感を改善してみせた。
なお、13日の「ワルキューレ」の公演でティーレマンはバイロイトでの200回目の指揮という新記録を樹立した。すでに同音楽祭で取り上げる10演目すべての指揮をするという偉業を達成している。彼が〝欠席〟した2023、24年はかつて〝申し込んでから10年待たないとチケットが買えない〟といわれた同音楽祭で、「リング」の当日券が販売されるという事態に見舞われたりもした。25年に復帰した際には彼の指揮する公演は発売直後に完売する人気ぶり。バイロイト発のSNSを見ると後日行われたパーティーでカタリーナ・ワーグナー総裁がティーレマンに顕彰額を贈呈し「次の200回もお祝いしたい」との趣旨の祝辞を述べるなど、今やバイロイトにはなくてはならない存在であることを示した。
【歌手について】
歌手陣で最も印象に残ったのはヴォータン・さすらい人役のミヒャエル・フォレ。近年のバイロイトでは同役に加えて「マイスタージンガー」のハンス・ザックス、「パルジファル」のアムフォルタスなどを経験しているベテラン。「ワルキューレ」終幕の深みのある表現は心に迫るものがあった。
ジークフリートは人気のクラウス・フロリアン・フォークト。従来のヘルデン・テノールの強く輝かしい声質とは違うものの、表現は多彩であり、明るく爽やかなジークフリート像を描き出していた。今回はジークムント、ローゲも兼務したが、ジークムントは適役だったが、ローゲについては奸智(かんち)に長けたキャラクターと彼の声質がマッチしていないように感じた。ブリュンヒルデのカミラ・ニールントは繊細で美しい歌唱が印象的。ただし、この役にしては声量が少し足りなかったようで、「神々の黄昏」でティーレマンがオケを大きく鳴らしたことで、時折彼女の声がかき消された場面もあり、終演後には一部からブーイングが出ていた。フンディング、ハーゲンなどの複数の役をこなしたミカ・カレス、エールダ役のクリスタ・マイヤーも充実の歌唱を聴かせた。
公演データ
【バイロイト音楽祭2026 「ニーベルングの指環」~リング10010110~】
指揮:クリスティアン・ティーレマン
管弦楽:バイロイト祝祭管弦楽団
キュレーター:マルクス・ロブス
芸術・技術コンセプト:マルクス・ロブス、ニルス・コルテ
ドラマトゥルギー:アンドリ・ハルトマイヤー
デジタルとAIストーリーテリング:ローマン・ゼンクル
クリエイティブコード/ビジュアルアート:ニルス・コルテ、フィル・ハーゲン・ユングシュレーガー
舞台:ヴォルフ・グトヤール
衣装:ピア・マリア・マッカート
◎楽劇「ラインの黄金」
8月4日(火)18:00 バイロイト祝祭劇場
ヴォータン:ミヒャエル・フォレ
ドンナー:アレクサンドル・グラッサウアー
フロー:シヤコンガ・マクンゴ
ローゲ:クラウス・フロリアン・フォークト
フリッカ:アンナ・キスユディット
フライア:エヴェリン・ノヴァク
エールダ:クリスタ・マイヤー
アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー
ミーメ:ゲルハルト・ジーゲル
ファーゾルト:ミカ・カレス
ファーフナー:ピーター・ローズ
ヴォークリンデ:カタリーナ・コンラディ
ヴェルグンデ:ナタリア・スクリツカ
フロースヒルデ:マリー・アンリエット・ラインホルト
◎楽劇「ワルキューレ」
8月5日(水)16:00 バイロイト祝祭劇場
ジークムント:クラウス・フロリアン・フォークト
フンディング:ミカ・カレス
ヴォータン:ミヒャエル・フォレ
ジークリンデ:エルザ・ファン・デン・ヒーヴァー
ブリュンヒルデ:カミラ・ニールント
フリッカ:アンナ・キスユディット
ゲルヒルデ:マルティナ・ヴェルシェンバッハ
オルトリンデ:ブリット=トーン・ミュラーツ
ヴァルトラウテ:カリス・タッカー
シュヴェルトライテ:フレイヤ・アプフェルシュタート
ヘルムヴィーゲ:マグダレーナ・ヒンタードブラー
ジークルーネ:アレクサンドラ・イオニス
グリムゲルデ:マリー・アンリエット・ラインホルト
ロスヴァイセ:ナタリア・スクリツカ
◎楽劇「ジークフリート」
8月7日(金)16:00 バイロイト祝祭劇場
ジークフリート:クラウス・フロリアン・フォークト
ミーメ:ゲルハルト・ジーゲル
さすらい人:ミヒャエル・フォレ
アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー
ファーフナー:ピーター・ローズ
エールダ:クリスタ・マイヤー
ブリュンヒルデ:カミラ・ニールント
森林の小鳥:ビクトリア・ランデム
◎楽劇「神々の黄昏」
8月9日(日)16:00 バイロイト祝祭劇場
ジークフリート:クラウス・フロリアン・フォークト
グンター:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー
ハーゲン:ミカ・カレス
ブリュンヒルデ:カミラ・ニールント
グートルーネ:マグダレーナ・ヒンタードブラー
ヴァルトラウテ:クリスタ・マイヤー
第1のノルン:アンナ・キッスユディット
第2のノルン:アレクサンドラ・イオニス
第3のノルン:マグダレーナ・ヒンタードブラー
ヴォークリンデ:カタリーナ・コンラディ
ウェルグンデ:ナタリア・スクリツカ
フロースヒルデ:マリー・アンリエット・ラインホルト
合唱指揮:トーマス・エイトラー=デ・リント
バイロイト祝祭合唱団
みやじま・きわみ
放送番組・映像制作会社である毎日映画社に勤務する傍ら音楽ジャーナリストとしても活動。オーケストラ、ドイツ・オペラの分野を重点に取材を展開。中でもワーグナー作品上演の総本山といわれるドイツ・バイロイト音楽祭には2000年代以降、ほぼ毎年訪れるなどして公演のみならずバックステージの情報収集にも力を入れている。










