春のワーグナー競演(上)~二期会「タンホイザー」/新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」

東京二期会「タンホイザー」より 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦
東京二期会「タンホイザー」より 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦

この春、ワーグナーの作品を取り上げた大型公演が4件、相次いで開催されるという〝ワーグナー祭り〟のような活況を呈している。そこで各公演を速リポで速報することに加えて、当コーナーでも2回に分けて詳しく振り返ってみたい。その前編は二期会の「タンホイザー」と新国立劇場による「トリスタンとイゾルデ」の再演。いずれも取材したのは初日の公演。(宮嶋 極)

【東京二期会オペラ劇場 ワーグナー「タンホイザー」再演】

キース・ウォーナー演出による当プロダクションはフランス国立ラン歌劇場との提携公演で日本ではコロナ禍中の2021年2月にプレミエされた。この時はパンデミックの真っ只(ただ)中ということもあり舞台上の歌手の動きに一定の制限がかけられていたことに加えてピット内のオケや合唱の人数も絞られた形での上演であった。(とはいえ、セバスティアン・ヴァイグレの指揮の下『もと』、舞台上の歌手とピット内の読響が連携した精妙なアンサンブルは見事であった)その意味では今回、日本におけるフルバージョンのお披露目ということになる。演劇的な意味合いや面白みが前回以上に強く伝わってきたが、そのあたりは東条碩夫氏執筆の速リポ(東京二期会オペラ劇場 リヒャルト・ワーグナー「タンホイザー」 | CLASSICNAVI) に詳述されているのでご覧いただきたい。(題名役のサイモン・オニールの歌唱についても同じく)

ヘルデン・テノールとして名高いサイモン・オニールだが、タンホイザー役は初 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦
ヘルデン・テノールとして名高いサイモン・オニールだが、タンホイザー役は初 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦

今回の上演では「タンホイザー」の複数存在する版から〝良いとこ取り〟のような形でまとめられていた。序曲の後のバッカナール(ドレスデン版では存在しない)は程よい長さ(詳細は省略)となっていた。その後に続くヴェーヌスベルクの場面はパリ版、ウィーン版に準拠して「トリスタンとイゾルデ」と同じ半音階進行による無限旋律のような音楽世界が出現する。ヴェーヌスベルクの異界的な雰囲気を表現する効果はあるが、突然「トリスタン…」の世界が現れるのには少し違和感を覚える。ただし、これはあくまで筆者の個人的な好みである。
逆にドレスデン版からのオリジナルを尊重し奏功したケースとしては第2幕4場の後半、「いざローマへ!」となる直前、エリーザベトが「慈愛と恩寵(おんちょう)の神よ、どうかあの方を御前に詣でさせてください」と大アンサンブルに加わる場面を挙げておきたい。改訂諸版では第1幕が長くなることに伴いこの歌唱をカットする上演もあるが、彼女の祈りの気持ちを提示しておくことは第3幕の展開に向けて不可欠と筆者は考える。

巧みに演出されたヴェーヌスベルクの異界的な雰囲気 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦
巧みに演出されたヴェーヌスベルクの異界的な雰囲気 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦

この日エリーザベトを演じた渡邊仁美の歌唱も役の切々とした心情を巧みに表現していた。これは第3幕1場、エリーザベトが「全能なる処女よ、私の願いをお聞き届けください」と祈る場面でも同様で、必要以上に声を張らずに繊細に歌い上げたことは、この場面にふさわしい表現法といえよう。これを受けての大沼徹のヴォルフラムによる「夕星の歌」も内省的な表現でアクセル・コーバーの棒の下、歌手、合唱、そしてオーケストラが同じベクトルで歌唱と演技、演奏を繰り広げていることが伝わってきた。
なお、第2幕の幕切れ直前、弦楽器による「いざローマへ!」への導入は全音階進行による4小節のドレスデン版ではなく、半音階の8小節からなる改訂版を採用していた。こうした柔軟な対応を行いながらも一定のまとまりを感じさせるステージに仕上がっていたことは評価に値するステージであった。

エリーザベトの心情を切々と歌い上げた渡邊仁美 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦
エリーザベトの心情を切々と歌い上げた渡邊仁美 写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:寺司正彦

【新国立劇場 ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」再演】

英国の人気演出家デイヴィッド・マクヴィカーによる新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」のプロダクションは2010年12月末から翌年1月にかけてプレミエ上演された。この時は大野和士が東京フィルを指揮してピットに入った。以来、再演の機会には恵まれなかったが2018年に大野が同劇場オペラ芸術監督に就任した際、「ぜひ再演したい」との意思を示し実現に至ったもの。それだけに大野の意気込みは並々ならぬものがあり、それが公演全体の成功とその大きな原動力となった東京都交響楽団(再演では大野が音楽監督を務める都響に交代)との高い水準の演奏に繋(つな)がったことは間違いない。

新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場
新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

初日に先立つ3月1日に、当サイトのインタビュー取材(待望の再演 大野和士が語る、新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 | CLASSICNAVI)を行ったが、大野は「トリスタン…」についてこれまで見せたことがないほどの熱量で身振(ぶ)り手振りを交えて語り、時には2台のビデオ・カメラのレンズからフレームアウトしてしまうほどであった。旋律を歌いながら熱弁する大野の姿はまるで物語の中のトリスタンが憑依(ひょうい)したのではないか、と思えるくらいの入れ込みぶりであった。彼を何度か単独インタビューしたことがあるが、ち密に楽曲を分析し、それを実際の音へと的確に変換しているような印象が強かった。常にクレバーな佇(たたず)まいを崩すことなく、どこかに一点、クールな面を維持していることが音楽からも感じ取れることも多かった。(指揮者には必要な要素であるが)

イゾルデ役(右)のリエネ・キンチャ、ブランゲーネ役は藤村実穂子 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場
イゾルデ役(右)のリエネ・キンチャ、ブランゲーネ役は藤村実穂子 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ところが今回はまったく違っていた。インタビューで示した並々ならぬ熱意がオケも含む演者全員に伝播(でんぱ)し、第1幕への前奏曲から高い緊張感を生み出していた。有名なトリスタン和音からチェロが奏でる「憧れの動機」へと進む過程での集中力は凄(すさ)まじいもので、これだけで公演全体の成功を確信させるものであった。(過去、素晴らしかったと感じた〝トリスタン〟の上演はいずれも同様であった)
大野の音楽作りは油絵具で塗り固めるがごとくの厚い和声で響きの全体を覆ってしまうのではなく、主旋律の裏側で鳴る重要な動機や内声部の動きも見通しよく浮き彫りにしていくスタイル。それによって歌詞とオケが奏でる音楽との関連の意味が説得力を帯びてくる。響きを構成する各パートのバランスにも細心の注意が払われていた。第1幕の終盤や第2幕のトリスタンとイゾルデの二重唱、それに続くブランゲーネの「ご用心ください」の警告が加わる三重唱の均衡美は特筆すべきものであった。

トリスタンを歌ったゾルターン・ニャリ(右)とクルヴェナールを歌ったエギルス・シリンス 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場
トリスタンを歌ったゾルターン・ニャリ(右)とクルヴェナールを歌ったエギルス・シリンス 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

こうしたスタイル、従来のワグネリアンの好みには合わないこともあるかと予想されるが、昨今ではワーグナー上演の本場バイロイトでも同様のやり方が高い評価を得ることが多い。2013年からのキリル・ペトレンコによる「ニーベルングの指環」、16年からそれを継いだマレク・ヤノフスキ、さらには2019年から「マイスタージンガー」を指揮したフィリップ・ジョルダンもそうした方向性で音楽を組み立てて大成功を収めている。その意味では今回の大野も最先端のスタイルに則(のっと)った音楽作りをしてみせたといえよう。
もちろんそれにとどまらず、大野の気迫と演者たちの高い集中力が長丁場の最初から最後まで途切れることなく維持され、聴いていて第3幕の幕切れ「愛の死」まで短く感じたほどの密度の濃いステージであった。
なお、演出と歌手については東条碩夫氏執筆の速リポ(新国立劇場2023/2024シーズンオペラ リヒャルト・ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」)をご覧いただきたいが、直前に主役2人が交代したにもかかわらず、短期間でよくここまで仕上げたものだと感心させられる出来であった。ちなみに筆者が大野を取材した1日の時点でトリスタンの代役に起用されたゾルターン・ニャリはまだ、日本に到着していなかった。彼は本来のヘルデン・テノールとは少し異なるキャラクターではあったが、伸びのある声とよく研究された歌唱と演技は〝ピンチヒッター〟としての役割を十分に果たす立派なものであった。

キンチャ(イゾルデ)とニャリ(トリスタン) 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場
キンチャ(イゾルデ)とニャリ(トリスタン) 撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

公演データ

【東京二期会オペラ劇場 ワーグナー:「タンホイザー」再演】
2月28日(水)17:00 東京文化会館大ホール
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」(全3幕ドイツ語上演、日本語字幕付き)
フランス国立ラン歌劇場との提携公演

指揮:アクセル・コーバー
演出:キース・ウォーナー
演出補:カタリーナ・カステニング
装置:ボリス・クドルチカ
衣裳:カスパー・グラーナー
照明:ジョン・ビショップ
振付:カール・アルフレッド・シュライナー
映像:ミコワイ・モレンダ
合唱指揮:三澤 洋史
音楽アシスタント:石坂 宏

領主ヘルマン:加藤 宏隆
タンホイザー:サイモン・オニール
ヴォルフラム:大沼 徹
ヴァルター:高野 二郎
ピーテロルフ:近藤 圭
ハインリヒ:児玉 和弘
ラインマル:清水 宏樹
エリーザベト:渡邊 仁美
ヴェーヌス:林 正子
牧童:朝倉 春菜
小姓:本田 ゆりこ、黒田 詩織、実川 裕紀、本多 都
合唱:二期会合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団

【新国立劇場 ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」再演】
3月14日(木)16:00 新国立劇場オペラパレス
ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」(再演、全3幕ドイツ語上演字幕付き)

指揮:大野 和士
演出:デイヴィッド・マクヴィカー
美術・衣裳:ロバート・ジョーンズ
照明:ポール・コンスタブル
振付:アンドリュー・ジョージ
再演演出:三浦 安浩
舞台監督:須藤 清香

トリスタン:ゾルターン・ニャリ
マルケ王:ヴィルヘルム・シュヴィングハマー
イゾルデ:リエネ・キンチャ
クルヴェナール:エギルス・シリンス
メロート:秋谷 直之
ブランゲーネ:藤村 実穂子
牧童:青地 英幸
舵取り:駒田 敏章
若い船乗りの声:村上 公太
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部 達哉

宮嶋 極
宮嶋 極

みやじま・きわみ

放送番組・映像制作会社である毎日映画社に勤務する傍ら音楽ジャーナリストとしても活動。オーケストラ、ドイツ・オペラの分野を重点に取材を展開。中でもワーグナー作品上演の総本山といわれるドイツ・バイロイト音楽祭には2000年代以降、ほぼ毎年訪れるなどして公演のみならずバックステージの情報収集にも力を入れている。

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