2005年に開館した兵庫県立芸術文化センターは、芸術監督・佐渡裕のもと、開館以来毎年「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ」を制作上演して来たが、今年は「開館20周年記念公演として、初めてワーグナーの作品を取り上げた。(東条碩夫)
このシリーズにおけるドイツ・ロマン派のオペラとしては、2018年のウェーバーの「魔弾の射手」に次ぐものである。ワーグナーのオペラに初めて接する人々も多いであろうこの劇場の観客——それは毎年、6~8回もの公演をすべて満席近い状態にするほど強力な存在なのだ——のためには、この親しみやすい「さまよえるオランダ人」を選んだことは賢明であったと思われる。

演出はミヒャエル・テンメ、装置と衣裳はフリードリヒ・デパルム。ともに「魔弾の射手」を手がけた人たちだ。舞台装置は基本的にシンプルで、「船」や「海」はただ象徴的なイメージにとどめられる。第2幕では紡ぎ車は現れず、衣装工場のような光景となる。第3幕での女性たちは現代的なカラフルな服装、オランダ船の水夫たちは亡霊のような顔で出現する。
序曲のさなかに、幼女のゼンタに乳母マリー(魔女のような扮装)が「不幸なオランダ人」の肖像画と物語が載っている書物を見せようとする場面が舞台上に現れるが、これはテンメがプログラム冊子にも寄稿しているように「オランダ人が生きた時間と、舞台上で進行する時間との大きな隔たり」を描く一環でもあったろう。事実、第3幕の大詰めには、オランダ人に去られ、「死に至るまでの貞節を」と叫んで自死したゼンタの傍に、オランダ人が再び戻って来るという光景が観られるのだが、ここでの彼はすでに「幽霊船の船長の顔」に——つまりすでに何百年ものあいだ海をさまよっていた伝説上の人物に返っており、かくして「時の隔たり」が 描かれて終わる、というわけである。したがって、ここで音楽に現れる「救済の動機」は、極めて複雑な意味合いをもって響くことになる。

佐渡裕は、兵庫芸術文化センター管弦楽団を指揮して、この作品を骨太な、たっぷりとした響きの大らかな音楽として再現した。前半の2つの幕を比較的ゆっくりとしたテンポで、第3幕を激烈な速いテンポで構築したのは、悲劇性を劇的に高めるためでもあったろう。遅いテンポの部分にはもう少し緊張感が欲しかったし、ライト・モティーフの響かせ方をはじめとする音楽の細部には、もう少しニュアンスの変化が欲しかったが、そのあたりは、このオーケストラがワーグナーの音楽にまだ慣れていない所以なのかもしれない。
評者所見の公演(7月23日、24日)では、後者の日の演奏の方にオーケストラの密度の濃さが感じられたように思う。

またこの24日の上演では、第3幕の後半に1階客席からのスマホの大音響のアラーム音が3分以上も響いて鳴りやまず、場内の雰囲気を乱したという不愉快極まる事件があったが、しかし中断せずに続けられた演奏が、そのあと目覚ましく盛り上がるという皮肉な現象を生じさせたのも事実である。なお、第2幕と第3幕の各三重唱の一部には、慣習的なカットが施されていた。

今回の歌手陣は、邦人歌手組と来日演奏家組とのダブルキャストだった。一部には歌唱スタイルがワーグナーものとは異質だったり、また古いスタイルの歌唱だったりした人もいたが、同一役でも歌手の違いにより、それぞれ役柄表現の違いが出ていたのは興味深い。たとえばラストシーンでは、 髙田智宏はオランダ人のゼンタに寄せる同情の念を浮かび上がらせ、ヨーゼフ・ワーグナーは自ら救済を失った絶望感に打ちひしがれるさまを見せる、といった具合である。田崎尚美のやや物静かなゼンタと、シネイド・キャンベル・ウォレスの体当たり的なゼンタの対称的な表現の違いも面白いだろう。
だがなんといっても今回、傑出していたのは、ひょうごプロデュースオペラ合唱団である。女声陣の明るい闊達さ、男声陣の力強さは素晴らしく、第3幕前半での合唱の長大な掛け合いと応酬(オランダ船水夫の合唱パートはPA使用)は、まさに圧巻であった。

公演データ
佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ
歌劇「さまよえるオランダ人」
7月19日(土)、20日(日)、21日(月)、23日(水)、24日(木)、26日(土)、27日(日)
※取材日:23日(水)、24日(木)
各日14:00 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール
指揮:佐渡裕
演出:ミヒャエル・テンメ
オランダ人:髙田智宏/ヨーゼフ・ワーグナー
ダーラント:妻屋秀和/ルニ・ブラッタベルク
ゼンタ:田崎尚美/シネイド・キャンベル・ウォレス
エリック:宮里直樹/ロバート・ワトソン
マリー:塩崎めぐみ/ステファニー・ハウツィール
舵手:渡辺康/鈴木准
(以上、20、23、26日/19、21、24、27日ダブルキャスト)
管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団
合唱:ひょうごプロデュースオペラ合唱団

とうじょう・ひろお
早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。