~90~  指揮者が突然、キャンセルしたとき

Orchestra

この夏は、フェスタ サマーミューザKAWASAKIで新日本フィルを指揮する予定だった井上道義が体調不良のためにキャンセルし、セイジ・オザワ松本フェスティバルに出演する予定だったアンドリス・ネルソンスが体調不良を理由に来日を取りやめたことが話題となった。

指揮者が急なキャンセルをしたとき、オーケストラや主催者は、まず、別の指揮者を探さなければならない。代役は本番だけを振ればよいというわけではなく、リハーサルを含めて数日間スケジュールを空ける必要がある。ただし、予定されていた指揮者が当日の急病の場合、リハーサルなしで、いきなり本番ということもなくはない(バーンスタインが急病のワルターの代役でニューヨーク・フィルにデビューしたときはそうだった)。海外から代役を呼ぶ場合はそれに加えて数日スケジュールを空けてもらわなければならないことになる。
予定されていた指揮者が大物の場合、時間が空けられる同じレベルの指揮者を探すのはなかなか難しい。ブラームスの交響曲などの標準的なレパートリーなら振れる人は少なくない。しかし、レアなレパートリーを急に依頼されて、聴衆に聴かせるまでの音楽に仕上げる自信のある人はわずかだろう。たとえば、マーラーの交響曲第7番の代役を頼まれて、満員のマーラー・ファンを満足させるような演奏ができる指揮者は世界的にもそんなにいない。マーラーを得意としている、ジョナサン・ノットが同じフェスタ サマーミューザに出演するゆえに日本に来ていて、代役のために滞在を延長してくれたことは奇跡のような幸運であった。

代わりの同等の指揮者が見つからないときは、副指揮者(アシスタント・コンダクター)が振ることもある。アメリカのオーケストラによくいる副指揮者は、本番の指揮者のアシスタントとして、演奏されるレパートリーをすべて勉強し(本番の指揮者が来るまでに練習を振ることもある)、万一に備えて準備する。通常、副指揮者をしていても本番を振るチャンスは滅多にまわってこないが、ときどき幸運が巡ってくることもある。バーンスタインは、デビューしたとき、ニューヨーク・フィルの無名の副指揮者であった。昨年、ウラディーミル・フェドセーエフの代役としてNHK交響楽団の定期公演にデビューしたのは、N響指揮研究員の平石章人と湯川紘惠。また、東京シティ・フィルでは、急病の藤岡幸夫に代わって、同フィル指揮研究員の山上紘生が吉松隆の交響曲第3番を指揮した。
また、非常に稀なケースとして、指揮者なしで演奏するということもある。2005年、リハーサルを終えた後、ジャン・フルネが体調を崩し、東京都交響楽団は指揮者なしでデュカスの交響曲を演奏したのであった。そして、どうにもならないときには、公演中止もある。

指揮者変更に伴う入場料の払い戻しへの対応は、各オーケストラ、各主催者によってまちまちである。もちろん、チケットの購入は商取引ではあるが、指揮者も生身の人間である。我々聴衆としては、その演奏会にその指揮者が出てきて当然だと思い過ぎない方がよい。一つひとつの演奏会が無事行われることをありがたい(語源通り、「滅多にないこと」)と思いたい。

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山田 治生

やまだ・はるお

音楽評論家。1964年、京都市生まれ。87年、慶応義塾大学経済学部卒業。90年から音楽に関する執筆を行っている。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人」「トスカニーニ」「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」、編著書に「オペラガイド130選」「戦後のオペラ」「バロック・オペラ」などがある。

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