森麻季 ソプラノ・リサイタル~愛と平和への祈りをこめて Vol.16~

平和を願う心がにじみ出る純度が高い歌たち

平和への渇望を歌にして届け、聴く人の安らぎと前を向く力につなげたい。そう願う森麻季の、いわばライフワークがこのリサイタルである。森の願いはある特別な体験に根差している。9.11のテロの3日後、襲撃された現場近くの劇場で、テロに屈しないという強い思いをいだく満員の観客を前に「ホフマン物語」のオランピアを歌い、総立ちの客席から「芸術が平和を呼ぶように」というかけ声を浴びた。そのときに「歌の力」を実感したことが、森の力の源泉になっている。その「力」が今回もあふれた。

ソプラノの森麻季が、平和への祈りをこめたリサイタルを開催 ©Junichiro Matsuo
ソプラノの森麻季が、平和への祈りをこめたリサイタルを開催 ©Junichiro Matsuo

「フィガロの結婚」で伯爵夫人が歌う2つのアリアは、声を微妙にコントロールして、感情を細やかに紡いでいく。とくに第3幕のアリアは、失われた夫の心を取り戻したい、という強い気持ち(これも平和への渇望だ)が旋律に滲(にじ)み、次第に横溢(おういつ)する。反復された旋律にはヴァリエーションが豊かに付されたが、その一つひとつに意味が込められた。満たされない心の叫びを強調するための装飾であり変奏だ、と明らかに感じられた。

ベートーヴェンのオラトリオ「オリーヴ山のキリスト」からの2曲は、華やかな表現から積極的な希望が突き抜けるようで、ベッリーニ「ノルマ」の〝清らかな女神〟は、心の平和への願いが流麗な旋律にみなぎる。「愛と平和への祈りをこめて」という副題の意味が、1曲ごとにたしかに感じられる。そうした実感は、後半の日本歌曲でいっそう深まった。

「愛と平和への祈りをこめて」という副題の意味が、1曲ごとにたしかに感じられる ©Junichiro Matsuo
「愛と平和への祈りをこめて」という副題の意味が、1曲ごとにたしかに感じられる ©Junichiro Matsuo

木下牧子の「ひばり」では、大空へ羽ばたくことへの希望が、同「海と涙と私と」では、生命の揺籃(ようらん)の場だが、時に大切な生命を奪う海への思いが、同「さびしいカシの木」では、困難に遭っても立ち続けることの意義が、日本語の響きを大切にしながら伝えられた。一つひとつの言葉が切実で純粋なのだ。「いまなら日本歌曲を、培ってきたものを総動員して届けられる」と森は語っていたが、その意味がわかった。

日本歌曲では、一つひとつの言葉が切実に、純粋に歌われた ©Junichiro Matsuo
日本歌曲では、一つひとつの言葉が切実に、純粋に歌われた ©Junichiro Matsuo

年齢とともに声が成熟したとき心の状態はどうか。精神はどう成熟しているか。歌の質も力も、きっとそれに依るのである。森は平和を願う心が純粋で、濁りがないから、成熟した声に純粋な魂が宿るのだろう。中田喜直の「悲しくなったときは」では、悲しさを正面から見つめ、村井邦彦「翼をください」では、心の底から自由を願い、武満徹「小さな空」では、小さな幸せを求めることの大切さが、歌から滲み出る。

歌唱に若いころのような自由度があるとはいわない。だが、自然の情景も、心の情景も、若いころよりはるかに強く描写され、同時に純度が高い。一言でいえば、それは紛れもなく元気をもらえる歌だった。
(香原斗志)

自然や心の情景を強く描いた森の歌唱は、聴衆に元気を届けた ©Junichiro Matsuo
自然や心の情景を強く描いた森の歌唱は、聴衆に元気を届けた ©Junichiro Matsuo

公演データ

森麻季 ソプラノ・リサイタル~愛と平和への祈りをこめてVol.16~

9月19日(土) 14:00東京オペラシティ コンサートホール

ソプラノ:森麻季
ピアノ:山岸茂人

プログラム
モーツァルト:オペラ「フィガロの結婚」より〝愛の神よ、安らぎを与えたまえ〟
〝幸せだったあの日々は〟
シューベルト:即興曲 変ト長調 Op.90-3
ベートーヴェン:オラトリオ「オリーヴ山のキリスト」より〝救い主の慈悲をたたえよ〟〝おお、あなた方は救われた〟
ベッリーニ:オペラ「ノルマ」より〝清らかな女神よ〟
ブラームス:ピアノ・ソナタ 第3番 ヘ短調 Op.5より 第2楽章アンダンテ
シュトラウスⅡ:オペレッタ「こうもり」より〝故郷の調べ(チャールダーシュ)〟
木下牧子/やなせたかし:「愛する歌」より〝ひばり〟〝海と涙と私と〟〝さびしいカシの木〟
ドビュッシー:「子供の領分」より〝人形へのセレナード〟〝雪は踊っている〟
中田喜直/寺山修司:「悲しくなったときは」
中田喜直/鎌田忠良:「霧と話した」
村井邦彦/山上路夫:「翼をください」
アイルランド民謡:「ダニー・ボーイ」(キース・ジャレットによるリハーモナイズ)
木下牧子/岸田衿子:「花のかず」より〝竹とんぼに〟
木下牧子/まど・みちお:「おんがく」
武満徹:「小さな空」
菅野よう子/岩井俊二:「花は咲く」

アンコール
マスカーニ:アヴェ・マリア
プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」より〝私が街を歩けば(ムゼッタのワルツ)〟

他日公演
9月27日(日)14:00住友生命いずみホール(大阪)

Picture of 香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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