エネルギッシュな打鍵に、ひたすら美しい無垢な音響――重量級プログラムで示した新境地
プレミアム・リサイタルと銘打った当シリーズは辻󠄀井伸行にとって、ひときわ思い入れが深い企画。聴衆との距離が近い小ぶりな会場を選び、重量級のプログラムで臨んでいる。当夜も演奏は持ち前のポジティブな明晰さにあふれ、一層の高みを目ざす道程となった。
辻󠄀井は冒頭のドビュッシー「版画」から硬質で明快なタッチを生かし、曲の特質を直截的に引き出していく。作品の構造を明確に浮かばせ、印象派らしいエスプリや香りよりも、メリハリの効いた音像を鮮明に打ち出した。名門ドイツ・グラモフォンへの移籍第1作で聴けたピュアな歌心が、ここでも顔をのぞかせた。辻󠄀井の新境地なのだろう。
続くプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番は戦争ソナタの別名もある難曲で、実演は当ツアーが初挑戦という。辻󠄀井は先鋭な響きがきしむ第1楽章アレグロ・インクィエートの出だしから、速いテンポで畳みこむように突き進む。モダニズムを前面に出すエネルギッシュな打鍵とインパクトは最も得意とするところ。強烈な打鍵に耐えきれず、楽器の高音弦が開始早々に切れるハプニングまで起きた。応急修理後に演奏が再開された第2楽章の不安で陰鬱な気分は、むしろニュートラルな描写で、第3楽章の疾走へなだれ込んだ。
後半のベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」は、2009年に優勝を飾った米ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールでも勝負曲だった。今回の選択には原点を再確認し、かつ経験と成長を示す意味もあったろう。
古今きっての難曲も辻󠄀井の手に掛かると、嬉々として克服する対象と化す。技巧的なパッセージをパワフルに屈託なく駆け抜け、対旋律や経過句まですべてが克明。爽快感が強い。第2楽章のスケルツォも力業で、あっという間に通過。第3楽章アダージョ・ソステヌートの苦悩がにじむ叙情や感極まった嘆きは、辻󠄀井のフィルターを通すと情念の苦みが濾過され、ひたすら美しい無垢な音響へ昇華される。終楽章で跋扈(ばっこ)するフーガの嵐を、辻󠄀井は快刀乱麻を断つごとく、壮快に乗り切った。
みずから信じる道で各作曲家の重要作を攻略し、彼の現在地を示す一夜となった。
(深瀬満)
公演データ
辻󠄀井伸行プレミアム・リサイタル 2024
12月17日(火)19:00紀尾井ホール
プログラム
ドビュッシー:版画
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」
アンコール
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」第2楽章
坂本龍一:戦場のメリークリスマス
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」第3楽章
ふかせ・みちる
音楽ジャーナリスト。早大卒。一般紙の音楽担当記者を経て、広く書き手として活動。音楽界やアーティストの動向を追いかける。専門誌やウェブ・メディア、CDのライナーノート等に寄稿。ディスク評やオーディオ評論も手がける。