2024年は中部イタリアのペーザロが「イタリア文化首都」に設定された。このため、この海辺の町で毎夏開催されるロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)も、期間が長く設定され、例年以上に豊かな内容だった。3回に分けて届けるレポートの第1回は、新演出で上演された2つのオペラ・セリア(正歌劇)について。(香原斗志)
脇園彩が絶賛された「ビアンカとファッリエーロ」
8月7日、「ビアンカとファッリエーロ」でROFは開幕した。これは1819年12月、スカラ座で初演された作品で、上院議員の娘ビアンカは将軍ファッリエーロと相思相愛だが、父から資産家との結婚を強いられるという筋は、「ルチア」などと重なる。だが、ビアンカは結婚を承諾しない。駆け落ちしようとしたりして失敗した挙句、2人の結婚が許される。
ファッリエーロは女性のコントラルトが歌う男性役で、脇園彩が抜擢された。脇園はこのところレガートを磨き、小さな音符の連なりを敏捷に歌うアジリタとレガートが、よりなめらかに繋がる。声自体も絹のような光沢を得て、響きの純度も高まり、第1幕の登場のカヴァティーナから輝いた。
ビアンカのジェシカ・プラットも歌唱水準が高まっていた。連載「イタリア・オペラ名歌手カタログ」—〈第53回〉ジェシカ・プラット(ソプラノ)—も参考にしてほしいが、どの声域でも不純物のない澄み切った声を響かせ、低音域から超高音まで同じ声質を維持しながら、強弱を自在に変化させる。マリエッラ・デヴィーアのような高みに近づいてきた。
さらに、この2人の声の相性が抜群で、二重唱の美しさに「ベルカント」の意味を実感させられた。
脇園についてもう一つ。第2幕のアリアは音域が高く(最高音は高いド)、マリリン・ホーンやダニエラ・バルチェッローナは音を下げたが、脇園は至難のアジリタをふくむパッセージを鮮やかに表現しながら、原調で歌ったのだ。脇園の歌唱にコントラルトの重みが足りないという批評もあったが、正しくない。重厚なコントラルトはこの役を原調で歌えない。
ビアンカの父コンタレーノ役のディミトリー・コルチャックも、力強さを増しながら、テクニックがさらに磨かれている。指揮のロベルト・アバドは音楽を淀みなく流しつつ、要所を締めてドラマを構築した。ジャン=ルイ・グリンダの演出は読み替えこそないが、ハッピーエンドにするのは拒み、フィナーレでビアンカが幸福感に浸って歌うアリアを、恋人を失い狂乱した状態で歌わせた。(鑑賞日:8月14、19日)
マリオッティ指揮の圧巻の「エルミオーネ」
今年の目玉は「エルミオーネ」だった。トロイア戦争後の話で、エピロスの王ピッロは、トロイアの王子の未亡人に惹かれて結婚を迫るが、ピッロの婚約者エルミオーネは嫉妬に狂い、アガメムノンの息子オレステにピッロを殺させる——。1819年3月にナポリのサン・カルロ劇場で初演されたが、7回の上演だけで埋もれてしまった。
指揮のミケーレ・マリオッティは「非常に現代的で、また悲劇的すぎるために、当時の聴衆には好まれませんでしたが、『ギヨーム・テル』と並ぶ未来志向の作品です」と語る。具体的には「序曲を合唱が中断させ、エルミオーネに慣習的なアリアがなく、朗唱が主体であるなど、伝統的なオペラの構造からはみ出していて、また、人々の状況や感情は激しく変転します。それが魅力で、指揮する難しさでもあります」。
マリオッティはそんな濃密な魅力を、RAI国立交響楽団から余すところなく引き出す。彼が指揮するとすべての音が息づき、意味を持ち、ドラマに奉仕する。しかも瀟洒(しょうしゃ)な美しさが常に保たれる。
また、管弦楽と同じ歩調を保つ歌手たちの歌唱も、マリオッティが徹底的に鍛えたものと思われた。エルミオーネのアナスタシア・バルトリは強靭な声に柔軟なアジリタを加え、自在に強弱をつけ、感情の激しい浮沈を表した。ピッロのエネア・スカラも湧き上がる圧倒的な声を知的に操って隙がない。オレステはフアン・ディエゴ・フローレスで、声は多少重くなったものの鮮やかな歌唱で、品格とエレガンスはだれもがおよばない。
ヨハネス・エラートの演出は視覚的にモダンだが、場所や時代を曖昧にしながら、読み替えてはいない。グロテスクな衣裳や動作は好悪が分かれたと思うが、マリオッティによれば「音楽への深い理解に根差している」という。そういう目で見ると、人の動きと音楽とのあいだに齟齬(そご)がない。
この「エルミオーネ」に接した人は、ロッシーニが美しくも先進的な音楽で、息もつかせぬ緊迫したドラマを表現していた事実に、驚愕(きょうがく)したと思う。(鑑賞日:8月13、17、20日)
公演データ
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。