第29回 情熱の化身、初代ヤマカズ 山田一雄氏

情熱的な指揮ぶりの山田一雄氏 東京フィルハーモニー交響楽団提供
情熱的な指揮ぶりの山田一雄氏 東京フィルハーモニー交響楽団提供

ヤマカズと言っても、今の人気指揮者・山田和樹さんのお話ではなく、初代ヤマカズの山田一雄氏のこと。彼は、太平洋戦争直後から日本のオーケストラ界を支え、日本交響楽団(現NHK交響楽団)を指揮してマーラーの「復活」や「千人の交響曲」、ショスタコーヴィチの「第5交響曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などを日本初演した人としても有名である。のちには群馬交響楽団芸術監督、京都市交響楽団常任指揮者、神奈川フィルハーモニー管弦楽団音楽監督なども務めた。「山田一雄」という名に納まる前には、山田和男、山田夏精という名を使ったこともある。本名は「山田和雄」なのだそうだ。

 

山田一雄氏のエピソードで何と言っても有名なのは、あまりに情熱的な指揮ぶりで大暴れしたため、演奏中に指揮台から客席に転落、それでも平気で指揮棒を振りながらまた舞台に上がって指揮台に戻った、という、例の有名な話であろう。ただ、この話もさまざまな形で伝わっており、起き上がって指揮を続けながら悠々と脇の階段から舞台へ上がって来て指揮台に戻ったとか、客席からヒラリと舞台に飛び乗ったとかいう諸説がある。いずれも「本人の語るところによれば」とか「自分が見ていたところによれば」とか注釈がついているから、ややこしい話になる。筆者がマエストロのお宅で紅茶をご馳走になりながら直接伺った話ではこうだ。「僕は柔道を習っていたからね、受け身の術を心得ているから、客席に転げ落ちてひっくり返るなんてぶざまなことはしない。落ちたけど、パッと立ち直ったんですよ。それにあの時は、舞台と客席の段差が小さかったんでね。だから、なんてことはない、そのまますぐに舞台に飛び上がっただけです」。

 

筆者が初めて自分の小遣いで、プレイガイドでチケットを買って、それを大切に握りしめてコンサートを聴きに行ったのは、あの伝説の日比谷公会堂(東京では当時唯一の演奏会場)における、東京フィルハーモニー交響楽団の――当時流行りのプログラム「三大交響曲の夕べ」(運命、未完成、新世界)だった。その時の指揮者こそ、ほかならぬ「山田和男」だったのである。その時の氏の指揮姿は今でも目の底に残っているのだが、まあなんと派手だったこと。なにより驚いたのは、「運命」で最後のフォルティッシモを力いっぱい振り終えた瞬間、指揮棒を持つ手を再び高々と頭上にかざし、その大見得の勢いのまま身体を左に大きく揺らせると、まるで転げ落ちるような格好で身体を曲げて指揮台から飛び降り、そのままの姿勢で聴衆に答礼する、という一連の動作だった。指揮台は舞台前面ぎりぎりの場所に在るので、だれしもが「ウワッ、危ない!」とヒヤリとしたはずである。その頃は未だ氏が「指揮中に客席に転落した」などという話は知らなかったが、あの驚くべき動作を見れば、転落するのも無理もない、と思えるであろう。

 

後年はさすがに、そんな物凄いことはおやりにならなかったはずだが、YouTubeなどに残っている映像を通じて、その情熱的な指揮姿だけは見ることができる。それは、なんともいえない魅力的な指揮姿である。

 

現代音楽にひときわ強い理解を示していたという山田一雄氏。戦後に手がけた前述の日本初演曲のいくつかを見ただけでも、その凄さを窺い知ることができるだろう。もっとも、「春の祭典」を指揮した時には、演奏がごちゃごちゃになって、氏みずから「今どこだ?」とオーケストラに訊いたなどという豪快な伝説も残っているが――それも大らかな時代のエピソードではある。

東条 碩夫
東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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