第45回 小澤征爾さんと日本フィル
小澤征爾さんが、新日本フィルのシェフを務める以前には、分裂前の日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者のポストに在ったことは周知のとおりである。もともと、彼とこの日本フィルとの縁は深いものがあった。1961年、小澤さんが
クラシック音楽業界の表裏に詳しい音楽評論家・東条碩夫さんが、世界的な指揮者やソリストたちの意外な素顔を紹介します。
小澤征爾さんが、新日本フィルのシェフを務める以前には、分裂前の日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者のポストに在ったことは周知のとおりである。もともと、彼とこの日本フィルとの縁は深いものがあった。1961年、小澤さんが
「音楽とはかくも美しく楽しきものか(中略)ミュンヒンガーの両手の動きにつれて、十五の弦楽器によって醸し出されるアンサンブルの美しさ。それは聴く者の胸に、春の潮のようにやわらかくゆたかに通って、陶酔境に誘うのであった」。—
前回のこのコラムで話の出た東京室内歌劇場——1970年のことになるが、そのプロデューサーのひとりだった畑中良輔氏がオペラ「霊媒」上演の準備をしておられた時の話。ある日、氏とお茶を飲んでいると、氏が何を思ったか私に「トビー
東京室内歌劇場——建物の名前ではなくオペラの制作団体である——が旗揚げ公演を行ったのは、1969年9月のことだった。日比谷の交差点近くにある第一生命のビルの6階にあった旧第一生命ホールを会場とし、定期的に室内オペラを上演
62年前、1961年の春、東京文化会館が落成した時、当時の音楽ファンがどんなに歓喜したかは、それを体験した者たちでなければ想像もつかないだろう。それまで日比谷公会堂という、全く音の響かない会場でコンサートを聴いていたわれ
1970年代から80年代前半にかけての毎年8月半ば、軽井沢の晴山ホテル(現・軽井沢プリンスホテル)で新日本フィルハーモニー交響楽団が開催していた「軽井沢音楽祭」のことを記憶している方は、どのくらいおられるだろうか。ホテル
若かりし頃の飯守泰次郎氏=1972年の二期会公演「ワルキューレ」プログラム誌より 飯守泰次郎氏がワーグナーものの指揮で、日本で初めて脚光を浴びたのは、やはり1972年秋の二期会上演「ワルキューレ」においてであったろう。こ
31年前、1992年の9月。長野県の松本駅に降り立つと、駅前広場いっぱいに広がる音楽祭のフラッグ。広場中央の塔(当時)のスピーカーからは、ブラームスの「第4交響曲」が流れている。街を挙げての大祝祭――という感だ。それが、
1970年代の札幌交響楽団 エフエム東京在籍時代、私が担当していたライブ番組のために、札幌交響楽団の演奏会を北海道で録音したことが何度かある。それは、ちょうど50年前——1973年のある浅い春の日に、札響事務局長の谷口靜
小遣いをためて買ったチケットを大切に握りしめ、日比谷公会堂へ聴きに行った初めての東京交響楽団の演奏は、上田仁指揮でのチャイコフスキーの「悲愴交響曲」、ピアノ協奏曲第1番(ソリストは井口基成)、「胡桃割人形」組曲だった。そ