
音響の良いホールはマエストロたちの一員でもあること
62年前、1961年の春、東京文化会館が落成した時、当時の音楽ファンがどんなに歓喜したかは、それを体験した者たちでなければ想像もつかないだろう。それまで日比谷公会堂という、全く音の響かない会場でコンサートを聴いていたわれ
クラシック音楽業界の表裏に詳しい音楽評論家・東条碩夫さんが、世界的な指揮者やソリストたちの意外な素顔を紹介します。
62年前、1961年の春、東京文化会館が落成した時、当時の音楽ファンがどんなに歓喜したかは、それを体験した者たちでなければ想像もつかないだろう。それまで日比谷公会堂という、全く音の響かない会場でコンサートを聴いていたわれ
1970年代から80年代前半にかけての毎年8月半ば、軽井沢の晴山ホテル(現・軽井沢プリンスホテル)で新日本フィルハーモニー交響楽団が開催していた「軽井沢音楽祭」のことを記憶している方は、どのくらいおられるだろうか。ホテル
若かりし頃の飯守泰次郎氏=1972年の二期会公演「ワルキューレ」プログラム誌より 飯守泰次郎氏がワーグナーものの指揮で、日本で初めて脚光を浴びたのは、やはり1972年秋の二期会上演「ワルキューレ」においてであったろう。こ
31年前、1992年の9月。長野県の松本駅に降り立つと、駅前広場いっぱいに広がる音楽祭のフラッグ。広場中央の塔(当時)のスピーカーからは、ブラームスの「第4交響曲」が流れている。街を挙げての大祝祭――という感だ。それが、
1970年代の札幌交響楽団 エフエム東京在籍時代、私が担当していたライブ番組のために、札幌交響楽団の演奏会を北海道で録音したことが何度かある。それは、ちょうど50年前——1973年のある浅い春の日に、札響事務局長の谷口靜
小遣いをためて買ったチケットを大切に握りしめ、日比谷公会堂へ聴きに行った初めての東京交響楽団の演奏は、上田仁指揮でのチャイコフスキーの「悲愴交響曲」、ピアノ協奏曲第1番(ソリストは井口基成)、「胡桃割人形」組曲だった。そ
1971年、東条氏が初めて群響のライブ録音に訪れた際のエピソードから続きます(前編はこちら) 落雷と停電でひと騒動 第3楽章のさなか(その個所は今でも覚えている)、ついに危惧が的中し、どこかで落雷があったらしく、ホールの
やっぱり発端は「ここに泉あり」 群馬交響楽団の創設期のことを描いた映画「ここに泉あり」のことについては、たいていのクラシック・ファンはよく知っているだろう。私もあの映画を見て、すこぶる感動した一人だ。 映画のラストシーン
弦楽器群が最弱音で「聖杯グラールの動機」を奏し、前奏曲が始まる。同時にグラウンドの4カ所から、大きな気球がゆっくりと上がってゆく。弦が次第に数を増し、音楽が膨らんでゆくのにつれ、4つの気球が夕暮れの紺碧(こんぺき)の空
「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が、この3月初頭にびわ湖ホールで、沼尻竜典指揮京都市交響楽団他により上演される。また4月の初めには、東京文化会館で、東京・春・音楽祭の一環として、マレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団