第43回 演奏家的評論家・プロデューサー、畑中良輔氏

新国立劇場の初代オペラ部門芸術監督に就任した畑中良輔氏=1995年3月30日 第1回新国立劇場記者発表会より 新国立劇場提供
新国立劇場の初代オペラ部門芸術監督に就任した畑中良輔氏=1995年3月30日 第1回新国立劇場記者発表会より 新国立劇場提供

前回のこのコラムで話の出た東京室内歌劇場——1970年のことになるが、そのプロデューサーのひとりだった畑中良輔氏がオペラ「霊媒」上演の準備をしておられた時の話。ある日、氏とお茶を飲んでいると、氏が何を思ったか私に「トビーっていう美少年の役を探しているんだけど、なかなか適当なのがいなくてね。おたく、やらない?」と言い出した。「歌わなくていい、演技だけの黙役だから」。トビーとは、あの最後の場面で、拳銃で撃ち殺される少年のことである。

当時、私はFM東海(東海大学FM放送局、FM東京の前身)の職員だったが、もともと芝居が好きだったし、子供の時には、親に内緒でNHKのラジオ放送劇団テアトロ・ピッコロの入団テストを受け、合格したくらいだったから(両親に一喝されて入団は諦めた)、今回も面白そうだなと思い、ちょっと乗り気になった。ところが畑中氏は言葉を継いで曰(いわ)く、「でもその役、舞台の上でハダカになって、鞭(むち)で打たれたりするんだけどね。それでもいい?」。それを聞いて私はまた諦め、丁重にお断りした。仕事上、やっぱり聞こえが悪かろうし、のちのち業界仲間たちの絶好のサカナにされることは間違いないと怖(お)じ気づいたので。

 

1997年1月から2月にかけ、人気のバリトン歌手ヘルマン・プライが、シューベルト生誕200年記念として、サントリーホールで「シューベルティアーデ」と題する6回の歌曲リサイタルを行なったことがある。それは「美しき水車屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」の他、たくさんの歌曲を含む6種類の異なったプログラムを(すべて暗譜で)歌うという素晴らしいものだった。だがその最終日、「白鳥の歌」の、それも最後の曲である「鳩(はと)の使い」の終わり近くになった個所(かしょ)で、プライの歌が突然止まってしまった。聴衆全員の息が止まり、ホール内は沈黙に閉ざされた。つまり大歌手が「間違えた」のである。

畑中氏はその時、私の隣に座っていたのだが、この歌曲集の途中から、ずっと首を垂れ、眼を閉じたまま身動きもしなかった。私は「先生、やっぱりお疲れなんだろうな」と勝手に決め込み、歌を聴きながら譜面を追い続けていたのだが、私が一瞬その個所を見失ったと思った時、明らかに眠っていたと思われた畑中氏が、突然、どっと私の方にもたれかかって来たのである。私はぎょっとした。ほとんどそれと同時に、プライの歌が止まった。すると、間髪を入れず、畑中氏が「ああ、そこへ飛んじゃだめなんだよ!」と残念そうにつぶやいたのである。氏が激しい勢いでもたれかかって来たのは、私が拡(ひろ)げていた楽譜を覗(のぞ)き込もうとしたためだった、と私はやっと気がついた。ここで肝心なのは、畑中氏がプライの歌い間違いに気づいたのは、歌が止まってからではなく、止まる前だったということである。つまり氏は居眠りしていたどころか、実はずっと頭の中で完璧に曲を追っていたのだろう。さすが、自らも歌手だった畑中良輔氏ならではの鋭さであった。

 

畑中氏は、その年の秋に開場した新国立劇場のオペラ部門芸術監督に就任した。初期の新国立劇場は、百家争鳴(ひゃっかそうめい)というべきか、新プロダクションのひとつひとつに毀誉褒貶(きよほうへん)、言いたい放題の意見が絡み合って、客席からも猛烈なブーイングが飛び交っていたものである。私も畑中芸術監督に雑誌のためのインタビューを二度ほど行なったことがあるが、氏は異論に対してもすこぶる寛容だった。クソミソにけなされた「カルメン」の最初のプロダクションに対し、私も大いに異論をぶつけたのだが、氏の「みんな、どうしてあのコンセプトが解(わか)らないのかなあ」に、私が「いや、コンセプトという以前に」と食い下がると、氏はむしろ楽しそうに「以前に?」と繰り返し、私の次の言葉を待つ、という具合だった。

私も数多くの演奏家にインタビューを行なって来たが、日本の演奏家で、このように議論を楽しむような雰囲気を持った方は、畑中良輔氏のほかにはお目にかかったことがない。本当にあたたかい感じの人だった。

東条 碩夫
東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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