第48回 「若き恋人たちの悲歌」

「若き恋人たちの悲歌」初演を含む、ベルリン・ドイツ・オペラの来日公演チラシ(1966年)
「若き恋人たちの悲歌」初演を含む、ベルリン・ドイツ・オペラの来日公演チラシ(1966年)

ドイツの近代作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェのオペラ「若き恋人たちの悲歌」が彼自身の指揮で日本初演されたのは、1966年、ベルリン・ドイツ・オペラの2度目の来日の時だった。大歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが主人公の大詩人グレゴール・ミッテンホーファーを歌い演じることもあって、結構な話題になったものである。
ストーリーは——山荘で詩作に没頭する大詩人。彼は、好意を持っていた若い女性が別の若者と恋に落ち、登山に出掛けて行くのを、内心の怒りを押し隠して見送る。だが山の天気が急変して猛吹雪となり、案内人が「だれか登山している人をご存じありませんか? 今から行けば助けられますが」と駆け込んで来た時、大詩人は冷然と「さあ、思い当たらんな」と答えるのだった。時が経ち、詩人の朗読会が各界の名士を招待して開かれ、彼は「遭難した若い2人に捧げる」として「若き恋人たちの悲歌」を発表するのだったが、聞こえて来るのは彼の言葉ではなく、その2人をはじめ、詩作に霊感を与えた人々の声(ヴォカリーズ)であった……。

 

今から思えば、まだ字幕もなかった頃なのに、こういう現代オペラの原語(独語)上演を、日本の愛好者たちがよくまあ受容したものである。私ども熱烈なファンは、その上演に合わせて発売されたレクラム文庫形式の小冊子の対訳本を買い、全て「予習」して行ったものだったが——この現象は泰西(たいせい)の人たちをよほど驚かせたらしく、「日本の観客はみんな事前に台本を読んで準備して来る、こんな国はほかにない」と、ドイツに帰ってから触れ回っていたとかいう話が、何の雑誌だったかに出ていたのを記憶している。
日生劇場でこの時の上演を観た作家の五味康祐氏が「ドイツ・オペラの音」というエッセイで、こういうことを書いていた——第1幕を観終わって「あっけにとられ、退屈し、うんざりしてロビーに出たら、石原慎太郎がいた」ので、面白かったかと聞いたら、「あまり面白くない」という。傍に黛敏郎がいたので、あなたは面白いのか、と質問したら、首を(横に)振った。これから面白くなるのかと聞いたら、「あの程度でしょう」と答えた、という話。大岡昇平さん(彼はこの人だけに「さん」をつけていた)がいたので感想を聞いたら、「ぼくはおもしろかった。いろいろ空想するものがあってね」と言った。少しヘンツェの深読みではないかと、私は大岡さんの顔を見直した……と続けている。そして、こんなのを全曲観るくらいなら、グラモフォンから出ている抜粋LPを聴いていた方がまだましだ、と一刀両断し、どうして一人くらい、ヘンツェを軽蔑する批評家が日本にいないのかと思う……と、とにかく言いたい放題なのだが、こういうエッセイは面白い(五味康祐著「西方の音」新潮社刊から自由に引用)。

 

私も、必ずしも面白かったとは言えないけれども、58年も前のことのわりには、いくつか記憶に残っている場面がある。ひとつは、くだらないことだが——医者ライシュマン博士が詩人の秘書カロリーナ令嬢を診察して「インフルエンザです」と一言告げる個所で、それが「解る言葉」だったために客席からどっと笑いが起こったこと。その他、ミッテンホーファーが若い2人を見送った直後に怒りの叫び声をあげ、荒々しく床を踏み鳴らす場面で、フィッシャー=ディースカウという人は、歌は超絶的に上手いけれど、演技は随分不器用な人なんだな、と慨嘆したこととか、彼が前述のラストシーンでヴォカリーズを歌いつつ、いかにも「朗読」らしく咳一咳(がいいちがい)したり、途中でコップの水を飲んで見せたりする光景に、さすがドイツのオペラ、細かい演出をやるもんだな、と感心したこととか——。
ちょうどその頃、私も失恋の憂き目に遭っていたせいで、ミッテンホーファーになぜか感情移入してしまい、妙にこの舞台が記憶に残ったのかもしれない。もっとも私は、誓って言うが、「恋人たち」を見殺しにするような性格では全くないけれど。

 

かんじんのヘンツェの音楽はどうだったのか、というと、これは残念ながらさっぱり印象に残っていない。ただ、繰り返し、繰り返し聴いたその抜粋レコード(グラモフォン SLGM1359)に入っている音楽だけはよく覚えているし、そのレコードも、今も大切に持っている。
外来オペラ団がこのような刺激的な現代作品を日本初演できた時代が、今思えば懐かしい。そう言えば、ベルリン・ドイツ・オペラはこの4年後にも大阪万博記念公演として来日、シェーンベルクの「モーゼとアロン」を日本初演した。そして、当時としてはすこぶる過激だったその演出は週刊誌ネタになったものだった。

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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