62年前、1961年の春、東京文化会館が落成した時、当時の音楽ファンがどんなに歓喜したかは、それを体験した者たちでなければ想像もつかないだろう。それまで日比谷公会堂という、全く音の響かない会場でコンサートを聴いていたわれわれにとっては、あの東京文化会館の大ホールは、本当に夢のような世界に思えた。まず壮麗な広いホワイエとロビーに感激し、大ホールに入れば、その広大な空間、ゆったりとした椅子が並ぶ客席、美しく奥行のあるステージに目を見張る。第一、音響効果が日比谷公会堂と比べて月とスッポンの違いだった!オーケストラが余裕たっぷり、壮大に堂々と鳴り響く。それがどんなに素晴らしく感じられたか!筆者が初めてその「夢の殿堂」で聴いたコンサートは、レナード(当時の表記はレオナード)・バーンスタインとニューヨーク・フィルの初来日公演、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を含むプログラムだった。
プレイガイドで一番安い席を買い、大切に握りしめて東京文化会館に持って行ったチケットには、「1961 TOKYO EAST-WEST MUSIC ENCOUNTER 東京世界音楽祭」という麗々しい表示があり、「昭和36年5月6日PM.2:00 五階L2扉L列ろ15番 ¥500」と記載されている。500円!それでもわれわれ学生にはいい値段だった(普通のバイトの日当が420円だった時代なのだ)。席番が「いろは順」だったのも、時代を感じさせるだろう。客席は、しかしどうしようもないほどガラガラだった。これは前半の曲目がアイヴズの「答えぬ質問」(当時の表記)と第2交響曲という、その頃の日本の音楽界ではまったくなじみのなかったものだったせいもある。そして、バーンスタインという名も、一部の音楽ファンの間でしか知られていなかった。映画「ウエスト・サイド・ストーリー」が公開されるのは、その年の暮れのことなのである。
60年以上もたてば時効だろうと思うので——それに現在ではホールの構造からして不可能になっているので——旧悪を告白するのだが、どうしてもその演奏会を聴きたくてたまらない、しかしチケットを買うカネがない、という「メシよりも音楽が好き」な悪ガキたちが必死に考えることは、どうにかして客席に潜り込みたい、ということだろう。前述のニューヨーク・フィルの日の夜にはN響の演奏会があり、筆者たちはNHKにいた先輩に平身低頭、三拝九拝して無料招待の形にしてもらった(この演奏会もガラガラだった)のだが、コネのないある若者は上層階のトイレに隠れて夜まで待とうとし、巡回の警備員だかに発見され、つまみ出されたという。
その後何年かの間、悪ガキどもに流行した手法は、レストラン(精養軒)経由で大ホールに入ってしまうことだった。驚くべきことに当時は、精養軒から大ホールのロビーに続く階段は、ノーチェックだったのである。これは有名な話である。また、音楽資料室から内廊下に入り、その窓を乗り越え、屋上庭園を通過して大ホール上層階の通路の窓から忍び込む、というルートもあった。当時は、施錠も何もされていなかったのである。現在では考えられないような鷹揚(おうよう)な時代であったが、それだけ熱く燃えるファンが多かったのも事実だったのだ。ただし、ちなみに筆者の知るそのような不埒(ふらち)な者ども(自分も含めてだが)の中には、のちに音楽事務所や放送局やレコード会社に就職し、好きなクラシック音楽業界の仕事に就いていった人間も少なくない。
東京文化会館は、今でも美しい。開館から60年以上を経てもいまだに最初の鮮度を保っているという点で、特にあの大ホールは、日本ではまれなる存在ではなかろうか。その後生まれたサントリーホールなどに比べると残響が少なめというのは気になるものの、筆者は今でもあのホールへ行くたびに、内部の光景を眺めては当時の感動を思い出し、一種のセンチメンタルな感慨にふけってしまうのである。多分、これからもそうだろう。東京文化会館の設計者は、かの有名な前川國男氏であった。
とうじょう・ひろお
早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。