第39回 飯守泰次郎氏 ~わが国の誇るワーグナー指揮者~

若かりし頃の飯守泰次郎氏=1972年の二期会公演「ワルキューレ」プログラム誌より
若かりし頃の飯守泰次郎氏=1972年の二期会公演「ワルキューレ」プログラム誌より

飯守泰次郎氏がワーグナーものの指揮で、日本で初めて脚光を浴びたのは、やはり1972年秋の二期会上演「ワルキューレ」においてであったろう。これは同曲の日本人スタッフ・キャストによる日本初演でもあった。この時、飯守氏は32歳。

 

今でも忘れられないのは、東京フィルを指揮したその演奏の素晴らしさである。例えば第1幕の終わり近く、トランペットの朗々たる「剣の動機」とともにジークムントがトネリコの幹から剣を引き抜いたあと、「われこそはヴェルゼの子、ジークムント! 結婚の贈り物にこの剣をささげよう!」と宣言する箇所で、オーケストラは急速な木管の6連音符と弦のアルペッジョで沸き立つが、そこで飯守氏が東京フィルから引き出した熱狂は、それまでに私がレコードで聴いていたどの演奏よりも、陶酔的だった。そしてまた第3幕の終わり近く、ヴォータンがこみ上げる感情に負け、追放する愛娘ブリュンヒルデを抱きしめる場面でオーケストラが大きく高揚し、深い情感に満ちた音楽をとどろかせる箇所も!まさに、ワーグナーって本当にすごい、と私たちを感動させる見事な演奏だったのである。この二つの箇所の思い出だけでも、「飯守泰次郎のワーグナー」が、私にとって特別な存在となるのに充分であった。ちなみに、その時のヴォータンは木村俊光さん、ジークムントは丹羽勝海さんが歌っていた。

 

その後、飯守氏は、1976年にも二期会公演で「タンホイザー」を指揮しているが、私はどういうわけか、その時の印象があまりはっきりしていない。その後はしばらく、氏のワーグナーを聴いた記憶がないのだが——いずれにせよ氏は、活動の本拠を90年代の初めまでドイツに置いていたために、日本でじっくりとワーグナー演奏に取り組む機会がなかなか得られなかったのは確かである。

 

飯守氏が、日本でのワーグナー路線を再ブレイクさせた第1弾は、1998年3月に名古屋フィルを指揮して演奏した「ワルキューレ」(演奏会形式、抜粋上演)だったろう。「東京から大挙してファンが聴きに来てくれて、たいへん勇気を与えられた」と、氏はあるインタビューで語っている(ただし私は聴けなかった)。そして、2000年10月の関西二期会の「パルジファル」(全曲舞台上演)での指揮こそは、後々まで語り草となる「飯守のワーグナー」の全開であったろう。オーケストラは京都市響。「あれ、よかったよね」とワグネリアンたちが熱をこめて語り合ったことが懐かしい。

 

また氏は、その直前の9月から東京シティ・フィルを指揮して「ニーベルングの指環」全4部作を年1作の割で、セミ・ステージ上演により開始したが、この演奏もなかなかの話題となった。氏はのちにも新国立劇場芸術監督として「指環」全曲舞台上演を指揮しているが、そう、わが国の指揮者で、日本で「指環」全曲ツィクルスを2度指揮したことがあるのは、今のところ、ただ彼ひとりだけなのである。

 

この20年以上の間に、彼がワーグナー作品を全曲舞台上演として指揮した機会は、詳しく数えたわけではないが、おそらく30件を優に超すのではなかろうか(それぞれの複数回上演も多い)。抜粋上演や名曲演奏会を加えれば、さらに膨大な数になるだろう。氏は、不抜のエネルギーの持主でもあった。2012年9月の東京二期会での「パルジファル」では、読響を指揮して3日連続の公演をこなしたこともあった。しかもその直前、6月10日にはアマオケの東京アカデミッシェカペレを指揮して「さまよえるオランダ人」全曲(演奏会形式)を上演したかと思えば、わずか4日後には関西フィルで「ワルキューレ」第3幕を、これまた演奏会形式で指揮するというタフネスぶりだったのだ(私も両方を聴きにいったが)。

 

飯守氏が全曲舞台上演として最後に指揮したワーグナー作品は、2017年10月の「指環」ツィクルス最終演目の「神々の黄昏」だった。そして、演奏会としては、2021年5月16日、東京シティ・フィルを指揮しての「指環」の抜粋プログラムだった。

 

2000年以降、私も飯守氏が指揮するワーグナーは、そのほとんどを聴いて来た。その中で、演出と歌手陣も含めて最高のものをどれか一つ、と言われれば、2014年10月、氏の新国立劇場オペラ芸術監督就任第1作として指揮した「パルジファル」を挙げておきたい。

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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