今年は、ドミトリー・ショスタコーヴィチの没後50周年にあたる。ショスタコーヴィチは、1975年7月5日にヴィオラ・ソナタを書き上げ、同年8月9日にこの世を去った。当時小学生だった私にそのニュースの記憶はないが、1970年代後半にヴィオラ・ソナタが初録音され、それがFM放送で流れていたのは覚えている。私は、ムラヴィンスキー(ショスタコーヴィチの交響曲第5、6、8、9、10、12番を初演)の指揮を生で聴くことはできなかったが、ショスタコーヴィチと深く関わったロストロポーヴィチ(チェロ協奏曲第1、2番を初演)やバルシャイ(交響曲第14番を初演、「室内交響曲」を編曲)の指揮や演奏は何度も聴いている。ショスタコーヴィチは、自分と同じ時代を生きていた一番の大作曲家だというイメージが強い。
パーヴォ・ヤルヴィ(1962年生まれ)はショスタコーヴィチと直接会ったことのある最後の世代の指揮者に違いない。ショスタコーヴィチはパーヴォの父、ネーメ・ヤルヴィと親交があり、エストニアのパルヌにあるヤルヴィ家の別荘を訪ねた。パーヴォ少年はそのとき大作曲家から強い印象を受けた。パーヴォのショスタコーヴィチ演奏には、確かにソビエト連邦時代の厳しい空気が感じられる。
ショスタコーヴィチの音楽は、ソ連政府による芸術の統制に対応しながら(あるときは抵抗し、あるときは服従した)書かれたため、存命中、西側諸国でしばしば体制迎合的と非難されてきた。その代表的な例としては、交響曲第5番、第12番「1917年」、オラトリオ「森の歌」などがあげられるだろう。それに関して、昨年末で指揮活動を引退した、ショスタコーヴィチのスペシャリストでもある井上道義は、「ショスタコーヴィチは自分が書きたいことしか書いていない。迎合したのは映画音楽くらい」と述べている。突きつけられた現実的な条件の下で、自分の本当の思いを述べていく。決してウソは書かない。井上は、ショスタコーヴィチをそういう作曲家だと信じていた。だからこそ、あのようなショスタコーヴィチへの愛に満ちた演奏ができたのだと思う。
現在はショスタコーヴィチを直接知る指揮者がほとんどいなくなり、それどころか、若い世代の音楽家は、ソビエト連邦が存在していた時代さえ知らない。今は、ショスタコーヴィチの残した楽譜をどう読むかが自由な時代になっているといえるだろう。個人的には、交響曲第5番や第7番「レニングラード」が単純に闘いに勝利したハッピー・エンドな作品として演奏されるのは好きではない。でもそれはそれでよいのかもしれない。交響曲第7番の緩徐楽章は、戦争で破壊された祖国にも春は来て草木が芽吹くことが描かれているのだろうが、そういうことを知らなくても、純粋に美しい音楽である。作品のバックグラウンドに関する知識がなくても涙してしまうその美しさは、ショスタコーヴィチがモーツァルト級の天才であったことを示しているように思われる。
やまだ・はるお
音楽評論家。1964年、京都市生まれ。87年、慶応義塾大学経済学部卒業。90年から音楽に関する執筆を行っている。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人」「トスカニーニ」「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」、編著書に「オペラガイド130選」「戦後のオペラ」「バロック・オペラ」などがある。