~87~ 指揮者の引退演奏会のプログラム

2024年末で指揮活動を終える井上道義 (C) Yuriko Takagi
2024年末で指揮活動を終える井上道義 (C) Yuriko Takagi

指揮者は生涯現役であることが多い。体調や高齢によりいつのまにか演奏活動をしなくなった(できなくなった)指揮者は少なくないが、余力を残したまま引退して指揮者活動を終える人はまれである。
このたび、2024年末での指揮活動からの引退を表明している井上道義の最後の演奏会のプログラムが発表された。それは、12月30日に井上のサントリー音楽賞受賞記念コンサートとしてサントリーホールで開催され、読売日本交響楽団を相手に、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」、同第5番「運命」、ショスタコーヴィチの祝典序曲を振るというものである。彼ならもっと大規模な作品で最後を締め括るのかと予想していたので、ベートーヴェンの名曲中の名曲というのは意外であった。しかし、十八番であるショスタコーヴィチの短い祝典的な序曲で、自らの新たな旅立ちを祝うというのは、とても井上道義らしいと思う。
亡くなった指揮者には誰も、人生最後の演奏会(結果的に最後になった演奏会)というものがある。しかし、一つの演奏会を自らの人生最後の指揮の場と決めて引退した指揮者はごくわずかしかいない。その代表的な一人として、ベルナルト・ハイティンクがあげられる。彼は、2019年9月6日、最後にウィーン・フィルとブルックナーの交響曲第7番及びベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(独奏:エマニュエル・アックス)を演奏して、指揮活動を終えた。同じプログラムの8月31日のザルツブルク音楽祭での演奏は、テレビ放送され、DVDにもなっているのでご覧になったことがある方も多いだろう。優美で崇高なブルックナーの交響曲第7番は、人生最後に演奏する作品として、まったくふさわしいと思う。ハイティンクはこの作品を心から愛していたのであろう。

 

ユージン・オーマンディは、1984年1月に長年のパートナーであったフィラデルフィア管弦楽団を相手にベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番、交響曲第6番「田園」、バルトークの「オーケストラのための協奏曲」を指揮して引退した。バルトークはハンガリー系のオーマンディらしい選曲。クルト・ザンデルリンクは、2002年5月にかつて首席指揮者を務めたベルリン交響楽団(現在のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)とブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(独奏:内田光子)、シューマンの交響曲第4番を演奏して、指揮活動を終えた。ジャン・フルネは、2005年12月に名誉指揮者のポストにあった東京都交響楽団を相手にベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(独奏:伊藤恵)、ブラームスの交響曲第2番を振って、現役を退いた。人生最後の演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」やモーツァルトのピアノ協奏曲第24番の人気が高いのは興味深い。
「あなたは人生最後の演奏会で何を指揮したいですか?」と、すべての指揮者に尋ねてみたい。

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山田 治生

やまだ・はるお

音楽評論家。1964年、京都市生まれ。87年、慶応義塾大学経済学部卒業。90年から音楽に関する執筆を行っている。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人」「トスカニーニ」「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」、編著書に「オペラガイド130選」「戦後のオペラ」「バロック・オペラ」などがある。

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