2024年に生誕200周年を迎えるアントン・ブルックナーについては、既にそれを記念する演奏会が催され始めているが、ベドルジフ・スメタナがやはり生誕200周年を迎えることについてはまだあまり語られていないように思われる。ブルックナーとスメタナは、同年生まれであるだけでなく、同じ国(当時のオーストリア帝国)の生まれでもあった。二人の共通点は、作曲家として成功するまでに時間がかかったことであろうか。
ブルックナーが、本格的に作曲を始めたのは遅く、30歳代後半になってからである。彼は、聖フローアン修道院やリンツ大聖堂のオルガン奏者を務めたあと、1868年にウィーンに出て、ウィーン音楽院やウィーン大学で教鞭(きょうべん)を執った。ブルックナーが最初に成功を収めたといえる交響曲第2番を1872年に完成させたときには50歳近くになっていた。
スメタナは、1856年、ピアニストとして芽が出なかったプラハを離れ、スウェーデンのイェーテボリに移住し、同地で演奏活動を行うようになった。1861年、祖国の愛国的な動きに応じて、プラハに戻ったスメタナは、チェコ語の台本による民族主義的なオペラを書き始めた。そして、1866年に初演された「売られた花嫁」の成功により、注目される。また、1866年にはプラハの国民仮劇場の指揮者にも就任し、まさにチェコを代表する音楽家となっていった。
スメタナが、聴覚を失うなか、彼の代表作「わが祖国」を作曲していた頃(1874年~1879年)、ブルックナーは1878年に交響曲第5番を書き上げている。晩年のスメタナは、耳だけでなく精神も病み、1884年5月、病院において60歳で亡くなった。一方、ブルックナーは、同年12月、交響曲第7番初演が大きな成功を収める。ブルックナーは、60歳を超えてから畢竟(ひっきょう)の大作、交響曲第8番を書き、1896年に72歳で亡くなるまで交響曲第9番の作曲を続けた。まさに大器晩成の作曲家であった。
同い年の二人の作品を、彼らの時代に重ね合わせながら聴くと、非常に興味深く感じられる。
また、2024年は、アルノルト・シェーンベルク、チャールズ・アイヴズ、フランツ・シュミット、ヨゼフ・スーク(作曲家)、グスターヴ・ホルストの生誕150周年にもあたる。十二音音楽を創始したシェーンベルクとアメリカのアイヴズは、〝現代音楽〟の先駆者であり、ウィーンで活躍したフランツ・シュミットは伝統的かつモダンな作品を書いた。チェコのスークは、弦楽セレナードが有名だが、「アスラエル交響曲」などの大作も残している。イギリスのホルストは、アニバーサリーを機に、組曲「惑星」以外の作品の紹介が望まれる。誰もが、19世紀末から20世紀前半にかけて、後期ロマン派から現代音楽への流れのなかで自らの歩む道を探求していたのがわかる。
そのほか、2024年は、多彩な作品を残した團伊玖磨とイタリアの前衛作曲家ルイージ・ノーノの生誕100周年であり、イタリア・オペラの巨星ジャコモ・プッチーニと「レクイエム」が最も知られるガブリエル・フォーレの没後100年にもあたる。
やまだ・はるお
音楽評論家。1964年、京都市生まれ。87年、慶応義塾大学経済学部卒業。90年から音楽に関する執筆を行っている。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人」「トスカニーニ」「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」、編著書に「オペラガイド130選」「戦後のオペラ」「バロック・オペラ」などがある。