左手から溢れ出るインスピレーションの泉〜舘野泉バースデー・コンサート2024
舘野泉は1936年(昭和11年)11月10日生まれで間もなく88歳、米寿を祝う。2002年に第2の故国フィンランドでの演奏会終演直後、脳溢血に見舞われて右半身に麻痺が残ったが、2003年には「左手のピアニスト」として奇跡の復活を遂げた。以後、息子でヴァイオリニストのヤンネ舘野の協力も得て、日本内外の作曲家に左手のための新作を委嘱して世界初演を続け、この分野のレパートリー拡充に心血を注いできた。
4日、東京文化会館小ホールの88歳記念コンサートにも「舘野泉左手の文庫」助成による2人の作曲家、計3曲の委嘱新作世界初演で臨んだ。前半はアルゼンチン出身、2012年から日本を拠点とするパブロ・エスカンデ(1971―)の2曲。舘野の希望を受け、スペインの画家ゴヤ晩年の境涯をフランスの詩人たちの言葉を介して描く〝オペラ風〟の「魔女の夜宴」を作曲する際、エスカンデのアイデアでオスカー・ワイルドの童話朗読にピアノが精巧にからむもう1曲、「ナイチンゲールと薔薇の花」が生まれた。
演奏会は夜鳴きウグイスを意味する「ナイチンゲール…」で始まった。冒頭の打鍵を聴いただけで、舘野の左手が到達した孤高の美の世界を強く感じる。音楽大学を卒業した舞台俳優、元田牧子の声はマイクからスピーカーで拡張されるために最初は違和感を覚え、「ミリ単位」で朗読とピアノをからませる作曲技法(エスカンデ)も極端な早口言葉になる箇所では聴きづらかった。後半にかけてはバランスにも速度にも耳が慣れ、ナイチンゲールの密かな自己犠牲が踏みにじられる残酷な結末まで、一気に持っていかれた。
「魔女の夜宴」はスペイン文化を象徴する赤と黒(血と闇)のほの暗さを巧みに描き、舘野のピアノの凄みが一段と増した。朗読も聴きやすく、一貫してドラマを支えた。
後半は2011年以降、舘野とのコラボレーションを続ける平野一郎(1974―)への委嘱第6作「水夢譚」。アジアの楽器と打楽器、ピアノの合奏は舘野から出たアイデアという。原初の日本列島(ヤポネシア)に想いをはせた15の場面からなる大作には洋の東西を超えた音の軋(きし)み、交わり、融合、離散を香(こう)のように「きく」趣があり、それぞれの楽器の妙技に聴き惚れるだけでも飽きない。長い旅路の随所で〝道先案内人〟の舘野の洋琴(ピアノ)が確かな存在感を放ち、音楽に厚みを与える。泉の名が示す通り、舘野の左手は続く世代の作曲家や演奏家にインスピレーションを授け続けている。
(池田卓夫)
公演データ
舘野泉ピアノ・リサイタル
11月4日(月・祝) 14:00東京文化会館小ホール
ピアノ(洋琴):舘野泉
朗読:元田牧子
笙:中村華子
尺八:田野村聡
胡弓:木場大輔
琵琶:久保田晶子
箏(十三絃):竹澤悦子
打物:池上英樹
プログラム
パブロ・エスカンデ:
「ナイチンゲールと薔薇の花(オスカー・ワイルド)」
「魔女の夜宴(ゴヤを描く)」
平野一郎:「水夢譚」~洋琴・笙・尺八・胡弓・琵琶・箏と打物に依るヤポネシア山水譜〜舘野泉とヤポネシアの精霊に捧ぐ
アンコール
山田耕筰(梶谷修による左手ピアノ編曲):「赤とんぼ」
いけだ・たくお
2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。