<第54回> エネア・スカラ(テノール)

ロッシーニ・オペラ・フェスティバルの「エルミオーネ」でピッロに扮するスカラ (C)Amati Bacciardi
ロッシーニ・オペラ・フェスティバルの「エルミオーネ」でピッロに扮するスカラ (C)Amati Bacciardi

バリトンのような強い声に情熱的な輝き
比類ないテクニックも備わる無二のテノール

主として1810年代、アンドレア・ノッツァーリ(1775-1832)というテノールが名を馳せた。バリトンのような音色の力強い声が特色で、加えて、頭声を交えたハイCを超える高音と卓越した装飾歌唱の技術、高貴な響きを誇った。ロッシーニは「オテッロ」の題名役や「エルミオーネ」のピッロをはじめ、ノッツァーリを前提に数々の「バリテノール」の役を書いている。

現在、初演時にノッツァーリが歌ったロッシーニの役を、一身に引き受けているのがエネア・スカラである。ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)では、「オテッロ」の題名役(2022)、「エドゥアルドとクリスティーナ」のカルロ(2023)、「エルミオーネ」のピッロ(2024)と連続してノッツァーリの役を歌い、音楽祭に不可欠の存在になった。

その声にはバリトンのような暗めの響きと高い音圧があるが、同時に情熱的で輝かしく、無限に響くのではないかと思うくらい伸びやかだ。強いのに柔らかさにも欠けていない。そのうえ小さな音符が連なったパッセージを転がるように敏捷(びんしょう)に歌うアジリタも非常に鮮やかで、キャリア初期の録音とくらべ、強弱の制御も板に付いてきている。今年の「エルミオーネ」も、スカラがいることでどれだけ満足度が高まったことだろうか。

スカラに聞くと、「エルミオーネ」は「管弦楽が力強く、それを突き抜けて歌うためにはテクニックが必要だ」と強調する。だが、それは一朝一夕に修得されたものではない。

元来、重く低めの声だったので、周囲から「バリトンだ」と言われたそうだが、歌えば高音が出る。そこでテノールになったが、ここまで学びと訓練の連続だったいう。そして、2009年にROFの若者公演「ランスへの旅」でリーベンスコフ伯爵を歌ったときにくらべ、声はかなりヒロイックになった。いまでは叙情的な役よりも「重い声を広い音域にわたり響かせ、超高音とコロラトゥーラもある役のほうが、私には歌いやすい」と語る。

声が50%、知性が50%

むろんロッシーニ以外も歌う。ベッリーニ「ノルマ」のポッリオーネやドニゼッティ「ロベルト・デヴェリュー」の題名役等のほか、ヴェルディ「仮面舞踏会」のリッカルドやプッチーニ「ラ・ボエーム」のロドルフォなどもレパートリーだ。しかし、「ヴェルディやプッチーニを歌うテノールは多くても、ロッシーニをはじめベルカントを歌う人は多くない。だったら、そういうものを歌ったほうが賢い」と考えるのがスカラである。そして同じ賢さにより、劇的な声を持ちながら、「『トスカ』や『蝶々夫人』はまだ歌わない」という結論に導かれる。

常に師匠のもとでテクニックの確認を怠らず、リハーサル続きで高音が出なくなったときなどは、その教えに従って確認をするという。「筋肉について、喉や息、舌、それらを総合したメカニズムについて、すべての支えについて考えます。こうしたことを理解していれば、風邪をひいて咳が出るときも、熱があるときも、テクニックに助けられて乗り越えられます」とスカラ。彼によれば、歌手にとって大事なのは声が50%で、残り50%は知性だという。

今後の予定には、ロッシーニ「イングランド女王エリザベッタ」(初演でノッツァーリが歌ったレイチェスター)、ドニゼッティ「ルクレツィア・ボルジア」「アンナ・ボレーナ」、ベッリーニ「ノルマ」など、いわゆるベルカント・オペラに加え、ヴェルディ「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」、マスネ「マノン」といった役も並ぶ。

スカラは第一声で聴き手に強い印象をあたえる。音圧が高くかかった輝かしく情熱的な声が、全身に押し寄せてくる感覚は比類ない。だから、重量級の役のオファーも絶えないようだが、ベルカントをレパートリーの中心に据えて、輝きと、柔軟性と、やわらかさを維持している。そのために知性を存分に働かせる。

こうした姿勢は、豪快なホームランを打ちながら鮮やかな走塁をさらに磨く大谷翔平に似ているかもしれない。早い時期の来日を望みたい。

Picture of 香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

連載記事 

新着記事 

SHARE :