ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、ヴァイオリニストにとって外すことのできない大切なレパートリー。全曲録音は大きな挑戦となる。この秋、二人の若き日本人奏者が相次いで全集をリリースし、難関を突破した。演奏のアプローチは正反対といっていいほど違うが、内容の充実度はいい勝負。その一方が、幅広い活躍を続ける三浦文彰と、ベテランの風格を漂わせる清水和音のコンビだ。
二人はサントリーホールで今年、3回シリーズの全曲演奏会のうち2回を終え、すでに実演でも成果のほどを披露した。その模様は当サイトでもご紹介している。そしてツィクルスに先がけて収録の終わっていた全集録音が、最終回を前に登場した。CD4枚組みの立派なボックス・セットだ。
この若武者と、経験が深い巧者のコンビは、実に絶妙な関係を構築している。往年の巨匠風の濃厚な味わいを堂々と押し出す三浦に対し、作品の様式感へ的確に反応して細かく奏風を変える清水と、微妙に異なるベクトルが化学反応を起こす。一足先にブラームスのヴァイオリン・ソナタ全集のCDを出すなど、コンビの熟成度は急速に高まった。そんな中での本作には、大きなポイントが二つある。
まず、三浦の使用楽器が録音の途中で変わったこと。最初の収録が行われた2023年6月の段階ではストラディバリウス「ヴィオッティ」(1704年製作)を使っていた。それが2回目の同年8月にはグァルネリ・デル・ジェス「カストン」(1732年製作)に変わり、最後の24年1月は同じ。ヴァイオリニストにとって愛器は身体の一部のようなもの。著名な製作者の銘器ほど、思い通り手なずけるには時間と労力が必要だ。たまさかこの全集には、楽器をめぐる重要な変化が、ドキュメントのように刻まれた。
そして収録時の作品の組み合わせに、慎重な配慮がみられること。曲の成立時期が一つに固まらないよう、異なる年代の作品でまとめる工夫がなされた。これによって、時の経過による演奏解釈の変化を、同じ時代の作品群を通じて比較できる形となった。たとえば初期の第1~3番(作品12)は1曲ずつ3回に切り分けられた。
この結果、ストラディバリウスで弾いた第1、5、8番ではスマートな美音を生かし、慣れた楽器から流麗な響きが引き出された。グァルネリ・デル・ジェスを手にして日が浅い時期の第3、4、9番では、こってりしたコクと色艶を放つ手強い銘器を相手に、慎重に表現を選んでいる。最後の第2、6、7、10番では順応が進み、より闊達で伸びやかな表情が聴き取れる。ディスクでは作品の番号順に並ぶが、じっくり耳を澄ますと、各曲に反映された奏者の状況の違いに思いが至る。
東京の稲城市立iプラザで行われた録音は、二人の感興を生々しく伝える。収録のタイミングによってマイク・アレンジ等が異なり、ヴァイオリンとピアノのバランスなど、サウンド・パターンの変化が興味深い。
三浦と清水によるソナタ全曲演奏会の3回目は、東京では来年2月23日にサントリーホールで、大阪では3月16日にザ・シンフォニーホールで予定される。この全集を聴けば、有終の美を飾る最終回への期待が一段と膨らんでくる。
ちなみに同じソナタ全曲盤で、もう一つの注目作は佐藤俊介(ガット弦使用)とスーアン・チャイ(フォルテピアノ)によるセット。こちらは次月の「今月のイチ盤」でご紹介したい。
(深瀬 満)
ふかせ・みちる
音楽ジャーナリスト。早大卒。一般紙の音楽担当記者を経て、広く書き手として活動。音楽界やアーティストの動向を追いかける。専門誌やウェブ・メディア、CDのライナーノート等に寄稿。ディスク評やオーディオ評論も手がける。