新国立劇場の2024/2025シーズンは開幕から2作続けて、「ベルカント・オペラ」の傑作が並ぶ。ベッリーニ「夢遊病の女」とロッシーニ「ウィリアム・テル」で、もちろんベルカントらしい声の饗宴を楽しめる。だが、この2作は「初期ロマン主義オペラ」と呼ぶほうが相応しい。実際、のちのヴェルディらにも多大な影響をあたえており、そういう視点で鑑賞すると、楽しみも味わいもいっそう広がる。(香原斗志)
「夢遊病の女」の最大の魅力はなんといっても、ベッリーニならではの憂愁をたたえた長く流麗な旋律にある。美声を聴かせるためのものだと誤解している人もいるが違う。ベッリーニの旋律は心情を表している。
ベッリーニはドラマを深めるために歌唱様式を変えた。10歳近く先輩のロッシーニは、1つの音節に複数の音を当てた装飾的旋律を、技巧を凝らして歌わせ、比類ない歌唱美をとおして間接的に種々の感情を喚起した。対してベッリーニは、長いまっすぐな旋律自体に感情を込め、ドラマが直接的に表現されるように企図した。まさにヴェルディが継承した手法である。
物語は単純だ。婚約者のアミーナが伯爵の部屋で寝ているのが見つかり、エルヴィーノは婚約を解消すると言い出したが、実はアミーナは夢遊病で、われ知らず伯爵の部屋に行っていたのだった。エルヴィーノの誤解は解けてハッピーエンドを迎える。
だが、描かれる感情が深い。第1幕のカンタービレ「なんて爽やかなんでしょう」も、カバレッタ「胸に手を置いて」も、旋律はアミーナの心から湧き出たようで、カバレッタの装飾音も、それ自体が目的ではなく、彼女の胸のときめきを写実する。その後の、エルヴィーノのアミーナとの二重唱では、振幅の大きな旋律とリズムに、アミーナへの嫉妬心を伴った愛情が深く刻まれる。
シンプルな物語だからこそ、真情が細かな襞(ひだ)まで表現される。他者を思いやる人々の善性も、純粋な旋律からにじむ。それらは魂がこもらない歌唱では浮き上がらないが、アミーナ役に、レガートの旋律に豊かな色彩を添えるクラウディア・ムスキオ、エルヴィーノ役にますます快調のベルカントの旗手、アントニーノ・シラグーザと揃う。マウリツィオ・ベニーニの指揮を得て、このオペラに備わる「深み」を存分に味わえるはずだ。
「ウィリアム・テル」はフランス語の台本なので、正しくは「ギヨーム・テル」という。ベッリーニとの比較で、ロッシーニの装飾的旋律について記したが、この最後のオペラには該当しない。初演は「夢遊病の女」のわずか2年前の1829年で、ロッシーニも「テル」ではロマン主義的な表現を求め、技巧的な装飾は極力排除した。ベッリーニが企図した歌唱の改革は、ロッシーニも試みていたのである。
14世紀のスイスで、弓の名手テルが先導してハプスブルク家の圧政に抵抗し、そこに皇女マティルドと村の長老の息子アルノールの恋がからむ。アルプスを想起させる豊かな自然描写がロマンティックで、そこに純化した旋律で描写される人物の感情が重なる。その感情の一つひとつが深く多面的である。第2幕でマティルドがアルノールへの思いを吐露するロマンスは、繊細な旋律が心情と一体化し、第3幕で息子の頭に載せたリンゴを射るテルのソロからは、かかえた苦悩が強烈に伝わる。
また、このオペラで描かれる感情は個人を超えている。個人は社会集団と切り離せず、テルたちは集団で、集団による抑圧に立ち向かう。それを緻密な管弦楽と合唱が支える。のちのグランドオペラ、さらにはヴェルディに、どれだけ影響を与えたかわからない構成だ。第4幕のアルノールのレシタティフとエール「先祖伝来の住処(すみか)よ」をヒントに、ヴェルディがどんな曲を構想したか考えるのもおもしろい。
私は「テル」を海外で何度か鑑賞し、すぐれた演奏のときは、平和を希求するフィナーレの幸福感も手伝って、「オペラの歴史がここで途絶えていたとしても、この作品があれば幸せだ」とまで思った。今回も大野和士の指揮の下、テル役のミシュケタ、アルノール役のバルベラ、マティルド役のペレチャツコと揃った歌手たち力が加わり、そんな底知れぬ魅力が引き出されることを期待したい。
新国立劇場 ベッリーニ「夢遊病の女」新制作
全2幕(イタリア語上演/日本語及び英語字幕付)
10月3日(木)18:30 6日(日)14:00 9日(水)14:00 12日(土)14:00 4日(月・祝)13:00
指揮:マウリツィオ・ベニーニ
演出:バルバラ・リュック
美術:クリストフ・ヘッツァー
衣裳:クララ・ペルッフォ
照明:ウルス・シェーネバウム
振付:イラッツェ・アンサ、イガール・バコヴィッチ
演出補:アンナ・ポンセ
舞台監督:髙橋尚史
ロドルフォ伯爵:妻屋秀和
テレーザ:谷口睦美
アミーナ:クラウディア・ムスキオ
エルヴィーノ:アントニーノ・シラグーザ
リーザ:伊藤 晴
アレッシオ:近藤 圭
公証人:渡辺正親
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場 ロッシーニ「ウィリアム・テル」新制作
全4幕(フランス語上演/日本語及び英語字幕付)
11月20日(水)16:00 23日(土・祝)14:00 26日(火)14:00 28日(木)14:00 30日(土)14:00
指揮:大野和士
演出・美術・衣裳:ヤニス・コッコス
アーティスティック・コラボレーター:アンヌ・ブランカール
照明:ヴィニチオ・ケリ
映像:エリック・デュラント
振付:ナタリー・ヴァン・パリス
舞台監督:髙橋尚史
ギヨーム・テル(ウィリアム・テル):ゲジム・ミシュケタ
アルノール・メルクタール:ルネ・バルベラ
ヴァルテル・フュルスト:須藤慎吾
メルクタール:田中大揮
ジェミ:安井陽子
ジェスレル:妻屋秀和
ロドルフ:村上敏明
リュオディ:山本康寛
ルートルド:成田博之
マティルド:オルガ・ペレチャツコ
エドヴィージュ:齊藤純子
狩人:佐藤勝司
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。