今年の東京・春・音楽祭で終幕を飾ったプッチーニ「トスカ」は、2020年に始まった演奏会形式による「東京春祭プッチーニ・シリーズ」の一環。シリーズ初回と2回目は新型コロナウイルスの影響で中止となったものの、2022年には「トゥーランドット」を上演し、好評を博している。今年の演目「トスカ」の公演の様子を、加藤浩子さんに取材していただいた(取材日:4月13日)。
「トスカ」はやはり舞台が欲しい…。
演劇性が大きな特徴であるプッチーニのオペラの中でも、もっともドラマティックな「トスカ」。いくらキャストがそろっていても舞台がないのは物足りない、そう思い始めた矢先だった。
「マーリオ、マーリオ!」
ヒロイン、トスカの登場を予告する彼女の声が舞台袖から聞こえてきた瞬間、その思いが消えていった。響きが立体的で、言葉が立っていて、感情のゆらめきが伝わってくる。声だけで、「舞台」が見えてきたのだった。
この夜トスカを歌ったのは、ブルガリアのソプラノ、クラッシミラ・ストヤノヴァ。ウィーン国立歌劇場宮廷歌手の称号を有するベテランで、この役も重要なレパートリーにしている。彼女の演唱は、「至芸」と言っていいものだった。しなやかでエレガントな声が低音から高音まで滑らかに響き、感情の変化を万華鏡のように映し出す。恋人マリオに向かって言い放つ「あの瞳は黒くしてね」の一言がどれほど女性らしかったことか。
さらにドラマのアクセルが踏み込まれたのは、第1幕の後半、ブリン・ターフェル演じるスカルピアが加わってからである。大音響の「スカルピアの動機」をバックに登場したターフェルは、オペラ史上屈指の悪役を完全に自分のものにしていた。圧倒的な声量なのに声を張るのではなく語るように自然で、イタリア語の響きも美しく、スタイル感が崩れることもない。トスカをものにする決意をあらわにする第2幕のモノローグは、「オテロ」の悪役イアーゴの有名なソロ、クレドを思わせる悪魔的なもの。教会に残された扇子を検分する時のなめるような目つき、私室に入ったくつろぎを暗示するネクタイの緩め方、アンジェロッティの居場所を知った時の満足げなため息、トスカに迫る時の欲望のうなり声など、一挙一動が雄弁。「装置がなくても舞台が見える」すごみを体現していた。
他のキャストも穴がない。マリオ・カヴァラドッシ役のイヴァン・マグリは当初予定されていたピエロ・プレッティの代役で、譜面を見ながらの歌唱ながら大健闘。リリカルな声は特に高音域で明るく情熱的に響き、第2幕の〝勝利だ!〟では高音を思い切りよく伸ばしてテノールを聴く喜びを味合わせてくれた。アンジェロッティ役甲斐栄次郎の舞台慣れした演技、堂守役志村文彦の堂にいったコメディアンぶりも見応え満点。第3幕冒頭の羊飼いに少年少女合唱隊のメンバーを起用したのも、日本ではなかなかお目にかかれないケースだった。
とはいえターフェルやストヤノヴァと並ぶ第3の主役は、フレデリック・シャスラン指揮する読売日本交響楽団だった。音楽がこれほどドラマと一体化しているとよく理解できたのは、演奏会形式の利点である。シャスランはオーケストラをじっくり鳴らし、数々の動機を場面と感情に合わせて描き分ける。第2幕の幕切れで、殺されたスカルピアの動機が、あれほどかすかにそして不気味に、この世をさまよっているように演奏された例を筆者は知らない。随所で音画のようにドラマを彩る木管楽器の効果も痛感した。ドラマへの没入は合唱(仲田淳也指揮、東京オペラシンガーズ)にも当てはまる。第2幕で、窓の外から聞こえてくるカンタータが、単なる間奏曲ではなく、ドラマの進行に密着していることを痛感した。これだけ発見の連続があったのは、やはり演奏会形式だからなのだ。
というわけで、終わってみれば舞台なしの不満はどこへやら、「演奏会形式」ならではの利点を堪能し尽くした充実感に満たされた。「トスカ」、恐るべき作品である。
公演データ
4月13日(木)18:30、16日(日)15:00 東京文化会館大ホール
指揮:フレデリック・シャスラン
トスカ:クラッシミラ・ストヤノヴァ
カヴァラドッシ:イヴァン・マグリ
スカルピア:ブリン・ターフェル
アンジェロッティ:甲斐 栄次郎
堂守:志村 文彦
スポレッタ:工藤 翔陽
シャルローネ:駒田 敏章
看守:小田川 哲也
羊飼い:東京少年少女合唱隊メンバー
管弦楽:読売日本交響楽団
合唱:東京オペラシンガーズ
児童合唱:東京少年少女合唱隊
合唱指揮:仲田淳也
児童合唱指揮:長谷川久恵
プッチーニ:歌劇「トスカ」演奏会形式(全3幕・日本語字幕付き)
かとう・ひろこ
音楽物書き。バッハを中心とする古楽およびオペラ、絵画や歴史など幅広いテーマで執筆、講演活動を行う。欧米の劇場や作曲家ゆかりの地をめぐるツアーの企画同行も行い、バッハゆかりの地を巡る「バッハへの旅」は20年を超えるロングセラー。著書に「今夜はオペラ!」「ようこそオペラ」「バッハ」「黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ」「ヴェルディ」「オペラでわかるヨーロッパ史」「オペラで楽しむヨーロッパ史」など。最新刊は「16人16曲でわかるオペラの歴史」(平凡社新書)。
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