世界最高峰の声楽アンサンブル、タリス・スコラーズが5年ぶりに来日し、国内5カ所のツアーを行った。1973年オックスフォード大学在学中のピーター・フィリップスがルネサンス音楽の理想のポリフォニーを追求するために結成したタリス・スコラーズは、精力的な録音・コンサート活動により結成50周年の現在に至るまで世界中の聴衆を魅了している。
東京オペラシティの公演は「システィーナ礼拝堂からのひらめき」と題されたプログラムで、ルネサンス音楽を半世紀にわたって探究してきた指揮者ピーター・フィリップスの想いが込められた内容だった。彼らのレパートリーの中で特に有名なのが、システィーナ礼拝堂の秘曲と言われるアレグリの「ミゼレーレ」だ。この日のプログラムは、この曲を含む、システィーナ礼拝堂と関わりのあった同時代の作曲家の作品を選りすぐり、一つのミサ曲のように構成した点がユニークかつ秀逸だった。
パレストリーナの5つの異なるミサ曲からキリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの各楽章を選び、その間にシスティーナ礼拝堂に音楽を捧げたモラーレス、ジョスカン・デ・プレら5名の作曲家の作品を歌う。曲によって10名のメンバーが4名、6名と入れ替わって歌うのを聴いていると、ルネサンス音楽がポリフォニーにとどまらない多様性に満ちているのが伝わってきた。
キリエからグローリアまでの冒頭3曲は女声6名、男声4名のメンバー全員による演奏で、彼らの澄み渡った、全ての声部が見事に溶け合う響きに魅せられる。
女声3名とテノールの4名によるフェスタの「あなたは何ときれいで」では高音が優しく響くポリフォニーに耳を澄ませ、女声2名と男声4名で歌うカルパントラの「エレミアの哀歌」では一転、低音のユニゾンが人間の嘆きを露(あら)わにする。パレストリーナのクレドは男女8名によるポリフォニーが、晴れ渡った青空のような開放感にあふれていたのも印象的だ。
公演プログラムのジェームズ・M・ポッター(2019年)による解説に興味深い史実があった。『1514年に教皇レオ10世の礼拝堂長を務めていたカルパントラが、教皇が変わったため一旦その職を辞した後、再び元の職に戻ってみると、システィーナ礼拝堂の演奏クオリティが酷く劣化し、自身の作品がほとんど認識できないほど改変されていた』という。タリス・スコラーズの声がいつ聴いても唯一無二の美しさを保っているのは、言うまでもなくフィリップスが50年間変わらぬ理想のポリフォニーを掲げているからだ。それがいかに困難で厳しい道なのかは、教会音楽の難曲でもあるアレグリの「ミゼレーレ」を聴けば想像できる。この日は、舞台上に5声、2階バルコニー下手に4声の2つの合唱パートが配され、2階バルコニー上手に彼らを繋ぐテノールという3カ所からの演奏。何度も繰り返されるシンプルな旋律に、時にはハイCの高音を駆使し装飾音を添えながら、そこに込められた人間の心の嘆きや祈りが立体的な音の空間となり、最後の9声の合唱に到達するとそれはまさに天上の響き。壮大なミサを聴いた後のように心が浄化され癒される。
オペラシティの天を射すピラミッド型の天井に響いた「ミゼレーレ」は、ルネサンス(再生)という言葉が今を生きる私たちと重なり、かつてない深い感動をもたらしてくれた。
400年の時空を超えたミサの旅路を終え、熱い拍手に応えたフィリップスが5年ぶりに再会できた喜びを語り、アンコールにヘンリー・パーセルの「Hear my prayer, O Lord」が歌われた。不協和音さえ美しく響く歌声に、息をのむような静寂の後、スタンディング・オベーションの熱い喝采が満場のホールを再び包む。これからもタリス・スコラーズの音楽は人々の心に寄り添い、大いなる癒しと共に愛され続けるだろうと確信した。
(毬沙 琳)
公演データ
タリス・スコラーズ 結成50周年 日本ツアー
7月5日(金)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
指揮:ピーター・フィリップス
合唱:タリス・スコラーズ
「システィーナ礼拝堂からのひらめき」
パレストリーナ:6声のミサ「主よ 私はあなたのうちに望みを」からキリエ
モラーレス:レジーナ・チェリ
パレストリーナ:6声のミサ「お前はペテロ」からグローリア
フェスタ:あなたは何ときれいで
カルパントラ:エレミアの哀歌
パレストリーナ:「教皇マルケルスのミサ」からクレド
アレグリ:ミゼレーレ・メイ・デウス
パレストリーナ:ミサ「主よ 私は心を尽くしてあなたに感謝し」からサンクトゥス、ベネディクトゥス
ジョスカン・デ・プレ:世の常を超えて
パレストリーナ:ミサ・プレヴィスからアニュス・デイ
(アンコール)パーセル:「Hear my prayer, O Lord」
まるしゃ・りん
大手メディア企業勤務の傍ら、音楽ジャーナリストとしてクラシック音楽やオペラ公演などの取材活動を行う。近年はドイツ・バイロイト音楽祭を頻繁に訪れるなどし、ワーグナーを中心とした海外オペラ上演の最先端を取材。在京のオーケストラ事情にも精通している。