磨き抜かれた高貴な演奏~チョン×東京フィル ヴェルディ「オテロ」

音楽を引き立てる絶妙な演技・演出が聴き手を作品へと誘う 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団
音楽を引き立てる絶妙な演技・演出が聴き手を作品へと誘う 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団

オペラ指揮者チョン・ミョンフンが東京フィルハーモニー交響楽団と重ねる演奏会形式オペラが話題を呼んでいる。今年はチョンの十八番であり、ヴェルディ晩年の作品である「オテロ」。その7月31日サントリーホールでの公演の様子を、音楽&オペラ評論家の香原斗志氏にレポートして頂く。

幕開けの不協和音から、音の質が違った。力強いだけでなく、磨き抜かれている。チョン・ミョンフン円熟の手腕である。高い集中力をたもった管弦楽は速めのテンポで運ばれ、そこに合唱が力強くからんで、冒頭から心をわしづかみにされてしまう。そこにオーケストラの後方、正面のオルガンの真下からオテロ役のグレゴリー・クンデが登場し、「喜べ」と勝利をファンファーレのように歌い上げた。事実、この瞬間にこの夜の「勝利」は決まった――と、そんなふうに感じられた。

 

クンデの高音の輝きには、聴き手は陶酔するしかない。高音を出す際には一般に、イタリア語でジラーレ(曲げる)というテクニックが用いられる。開いた声をそのまま高音にもっていっても、よく響かない。声を細くして湾曲させることで、声を安定して高音まで導けるのだが、クンデはこのジラーレが見事なので、常に高音が輝きを発する。

 

1954年2月生まれだから69歳である。過去にこの年齢で、これほど力強く、しかも輝かしく声を響かせたテノールがいただろうか。失礼ながら、私はこの「オテロ」にクンデが起用されたとき、この歳で歌えるのかと半信半疑だったが、4月にローマ歌劇場でプッチーニ「外套」を鑑賞し、ルイージ役を若々しく歌うのを聴き、この晩の勝利も確信した。

年齢をものともせず、深く、ときに劇的な歌唱を聴かせたグレゴリー・クンデ 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団
年齢をものともせず、深く、ときに劇的な歌唱を聴かせたグレゴリー・クンデ
 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団

クンデは最初からドラマチックな役を歌っていたのではない。2000年1月に新国立劇場で歌ったのは、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」のドン・オッターヴィオだった。その後、私は「セミラーミデ」のイドレーノをはじめロッシーニの諸役を、困難な装飾歌唱を交えて見事に歌うのを何度も聴いてきた。オテロ役もクンデが歌うのはロッシーニのそれだった。

 

ところが、2010年前後からヴェルディなどのドラマチックな役を歌うようになり、オテロも十八番になった。前出のジラーレに象徴される盤石のテクニックに支えられているから、劇的な歌唱を無理なくこなせるのである。

 

それにしても、強靭(きょうじん)な声を激しく響かせ続けるオテロ役を、この年齢で最後まで疲れを感じさせずに歌ったのは、驚異というほかない。フォルテが輝かしいばかりか、ピアニッシモのコントロールも自在で、そこに年齢を重ねてこその深みも加わるから敵なしである。第3幕の、デズデーモナの不貞を確信して歌うモノローグの悲痛な嘆き。デズデーモナを突き倒して「地に伏せて、泣け!」と叫ぶ際の、ないまぜになった絶望と怒りと悲しみ。複雑な精神の鼓動が張り詰めた声に深く彫琢されている。

 

イアーゴのダリボール・イェニスも質量のある声を柔軟に動かし、そこにこの役ならではの毒をふんだんに盛り込んだ。少しこもり気味の声も、「毒」との相性はよかった。一方、カッシオ役のフランチェスコ・マルシーリアは、まっすぐ発せられる素直な美声で、イアーゴとの対称性が声および歌唱で見事に表現された。

 

デズデーモナを歌った小林厚子は初役だという。声を叙情的に響かせ、ていねいに歌っていた。しかし、母音を意識しすぎて子音が連続しないからだろうか、レガートになめらかさが欠け、ピアニッシモへのコントロールが行き届かないのが惜しかった。エミーリア役の中島郁子はすぐれた歌手だが、いつもより力が入っていたのは、周囲の力強い歌唱に引っ張られたからだろうか。

悪役ぶりを発揮したイアーゴ役のダリボール・イェニス(手前、左から2人目) 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団
悪役ぶりを発揮したイアーゴ役のダリボール・イェニス(手前、左から2人目) 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団

チョン・ミョンフンはこれら歌手たちを音楽の大きな奔流に乗せ、ドラマを立体的に構築しながら、淀みなく流す。管弦楽からロマンチックな溜めやルバートが削ぎ落され、余念が排除されている分、歌によるドラマがより鮮明に浮かび上がった。これも円熟のなせる技だといえよう。高貴に彫琢された管弦楽が声とからみ合い、彫りの深いドラマを構築した、と言い換えてもいい。

 

演奏会形式と歌われていたが、それぞれが適度な演技をした。演奏に集中しながら描かれている状況を予断なく理解できるという点で、ひとつの理想形だった。

オペラ指揮者としての手腕を発揮し、作品の魅力を際立たせたチョン・ミョンフン 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団
オペラ指揮者としての手腕を発揮し、作品の魅力を際立たせたチョン・ミョンフン 撮影=上野隆文/提供=東京フィルハーモニー交響楽団

公演データ

【東京フィルハーモニー交響楽団 第989回サントリー定期シリーズ】

7月31日(月)19:00 サントリーホール

指揮:チョン・ミョンフン
オテロ:グレゴリー・クンデ
デズデーモナ:小林厚子
イアーゴ:ダリボール・イェニス
ロドヴィーコ:相沢 創
カッシオ:フランチェスコ・マルシーリア
エミーリア:中島郁子
ロデリーゴ:村上敏明
モンターノ:青山 貴

伝令:タン・ジュンボ
合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)

ヴェルディ:歌劇「オテロ」
全4幕・日本語字幕付き原語(イタリア語)上演

香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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