今は昔、東京は新宿に「風月堂」というハイ・グレードな名曲喫茶があった。当時の前衛志向の若者たちのたまり場としても有名だったこの喫茶店は、特に1950年代後半から60年代半ばにかけては、バロック音楽と古典派、ワーグナーやドビュッシー、それに現代音楽に夢中になっている若者たちの「聖地」でもあった。そういうレパートリーのレコード(もちろんアナログのLPレコードだ)を豊富にそろえているという点では、この店はNHKをも凌ぐ強力な存在だったのだ。
朝(開店は10時だったか?)から深夜までかけ続けられるレコードは全て客のリクエストで構成され、シンフォニーは長いものでも全曲かけられるが、オペラなどはLP1枚両面を限度とされていた。レコードが高くてなかなか買えない身分だったわれわれ学生たちはリクエストを記入し、コーヒー1杯で何時間もたむろして、音楽談義をしながらその曲がかかるのを待っていたものである。
当時、店内の客たちをいちばん驚かせた曲のひとつは、当時はまだ珍しかったパーカッショニズム(打楽器主義)の名作、エドガー・ヴァレーズ(1883~1965)の「イオニゼーション」であったろう。1931年に作曲されたこの曲は、13人の奏者による37個の主として打楽器による作品だが、楽器の他にサイレンや鞭なども入るという、当時としては奇想天外な響きを持った面白い曲だった。これが鳴り出すと、店内のすべての客が、一様に変な顔をしてスピーカーの方を振り向く。そして打楽器の合奏が最強奏で爆発すると、店内の話し声が一瞬止まって、客たちがあっけにとられて顔を見合わせる。それを見ながら、リクエストをした当人たちは——ほかならぬわれわれなのだが——してやったり、と秘かに悦に入るのだった。当時は、そんな時代だったのである。そのレコードは、多分米CBSから出ていた(日本ではコロムビアから出た)ロバート・クラフト指揮のアンサンブルによる演奏だったと思う。
ついでながらこの曲は、1970年代になって、ストラスブール・パーカッションが来日した時に、東京文化会館で演奏したことがある。筆者は当時担当していたエフエム東京のライヴ番組のためにそれを収録し放送したのだが、折悪しく彼らのサイレンの装置が故障し、甚だ貧弱極まる音しか出ない状況になった。われわれは身の縮む思いだったが、後で新聞だったか雑誌だったかに載った演奏批評には、「サイレンの音色が悲劇的で、あたかも今日の不安な世界を象徴するような趣を感じさせた」とか、そういうあたたかい(?)一文も見られて、われわれ関係者は苦笑したものであった。
のちのフィリップ・グラスらによりブームを巻き起こしたミニマル・ミュージックの先駆的存在ともなった、テリー・ライリー(1935~)の1960年代の名作「イン・C」が、1970年夏の大阪万博のさなかに、鉄鋼館(70年万博会場に唯一現存する建物)で演奏された時のことも、筆者には強烈な思い出となって残っている。
多分それが日本初演ではなかったかと思うけれども、ピアノで「C」の音のみが叩き出され、それにいろいろな楽器が次々と加わり、揺れ動くような不思議な音響になって行く「モアレ効果」の面白さよりも、それが5分、10分、20分と、あまりに果てしなく続いて行くのに驚き呆れた聴衆からは、聞えよがしの笑い声や、「もういい加減にせえや」と言わんばかりの拍手まで起こるという始末であった。ピアノを叩いていたのは若い女性奏者だったが、彼女がくたびれると、作曲家のルーカス・フォスが替わって叩きはじめ、彼が疲れるとまた女性奏者が受け持つ、という光景にも、爆笑が起こったのだった。その演奏は、30分くらいは続いていたのではなかろうか。ミニマル・ミュージックなどという言葉が、未だほとんどと言っていいほど知られていなかった時代の話である。
ついでながら後日、この「イン・C」を、新日本フィルのメンバーがどこかで演奏した時の話を聞いたことがある。リハーサルの時だったろうが、当時の若い音楽監督・小泉和裕さんが、指揮者としてではなく、奏者として演奏に加わっていたそうだ。曲がいよいよ終わりに来て、指揮者がパッと終了の合図を出した時に、他の演奏者たちはぴたりと止まったが、たったひとり、小泉さんだけが最後に残ってしまった。つまり、ひとりだけ「終わらなかった」のである。途端に全員が大爆笑。指揮者のくせになんちゅうことだ、というわけで、「ちゃんと棒を見て演奏しろ」と、さんざんイジリまくられたという。他の楽員から聞いた話である。
とうじょう・ひろお
早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。