第50回 1965年スラブ歌劇団 初めて体験したロシア・東欧オペラのド迫力

スラヴ歌劇団の1965年来日時に収録された「ボリス・ゴドゥノフ」( キングインターナショナル ALTUSレーベル)
スラヴ歌劇団の1965年来日時に収録された「ボリス・ゴドゥノフ」( キングインターナショナル ALTUSレーベル)

声の凄さを披露してくれたイタリア歌劇団、演出の雄弁さを知らしめてくれたベルリン・ドイツ・オペラなど、日本オペラ界の「黒船」的事件は、今でもよく人々の口の端に上るが、1965年秋に来日した「スラブ歌劇団」(スラヴ・オペラ)のことは、60年近くたった今では、何となく知る人ぞ知る的な存在になっているのが残念である。実にあの「スラヴ・オペラ」こそ、ロシア・東欧のオペラのド迫力を初めて日本のファンに紹介してくれた公演だったのだから。
NHKが放送開始40周年記念として招へい主催したその「スラブ歌劇団」では、オーケストラだけはNHK交響楽団が受け持っていたが、合唱を含む声楽陣は全て来日勢だった。特にその合唱団は旧ユーゴスラヴィアのザグレブ国立歌劇場合唱団と表記されていたから、主力もその歌劇場で、それに東欧各国のソリストも加わっていたのだろうと思われる。指揮者陣にはロヴロ・フォン・マタチッチ、オスカー・ダノン、ミラン・ホルヴァートといった、当時すでにレコードでおなじみの顔ぶれが揃っており、すこぶる強力な布陣であった。
この時のレパートリーは、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」、ボロディンの「イーゴリ公」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」というロシアの名作3つに、東欧オペラからはスメタナの「売られた花嫁」が加えられていた。当時、日本ではあまり観る機会のなかった作品ばかりである。この中で、「イーゴリ公」だけは、これが日本初演だったはずである。

筆者がこの時強烈な印象を受けたものの一つは、旧ユーゴ出身の著名なバス、ミロスラヴ・チャンガロヴィッチ(1921~99)であった。彼はこの日本公演で「ボリス・ゴドゥノフ」の題名役と、「イーゴリ公の」コンチャク汗およびガリツキー公を歌ったのだが、その滑らかで深々とした声の中にも精悍(せいかん)さをたたえた歌唱は、まさに千両役者と呼ぶに相応しいものだったろう。彼の歌唱のスタイルは、往年の伝説的バス歌手シャリアピンの流儀である物々しい「語るように歌う」手法を、未だ少し受け継いでいた。それが違和感を生んだと評した人もいたようである。もっとも筆者のように、以前から「ボリス・ゴドゥノフ」を、ブルガリア出身の大バス歌手ボリス・クリストフ(1914~93)——この人は、もろシャリアピン流の歌い方をすることで有名だった——の歌った全曲レコードで夢中になって聴いていた者にとっては、違和感どころか、「これぞボリス」と思えたくらいだったのだが。

しかし、そういう人たちまでを「やはりこれは見事」とうならせたのが、「イーゴリ公」のコンチャク汗におけるチャンガロヴィッチだった。この一種の怪人的な、不気味なところさえあるポロヴェッツ(当時は「だったん」と呼ばれていた)軍の長である役柄を、彼はまさに怪奇な雰囲気で、バスを豊かに響かせ、表情にも凄味を利かせて歌い演じていたのである。もっとも、ユーモアを感じさせる場面もあった。有名な〝ポロヴェッツ人の踊り〟(当時は「だったん人の踊り」と呼ばれた)の場面で、踊り手たち——これも「ザグレブ国立歌劇場バレエ団」が来ていた——が次から次へと舞台前面へ繰り出すところでは、上手側に座を占めて酒を飲んでいるコンチャク汗が、その都度手をサッと動かしてキューを出すような仕草をする演出が可笑しく、まさかコンチャク汗自ら踊りを振付しているはずはなかろうに、わざとらしいねえ、と苦笑したものである。
だがとにかく、こういう千両役者的な、圧倒的な重量感と存在感を示すバス歌手が最近はだれかいるだろうか、と思わずにはいられない。かつては、ニコライ・ギャウロフなどはそういった意味の大スター歌手であったけれども。
(注)この来日時の「ボリス・ゴドゥノフ」と「イーゴリ公」のライヴCDが、キングインターナショナル発売のアルトゥス・レーベルで出ている。

この来日で「ボリス・ゴドゥノフ」を指揮したマタチッチが、その巨人的な音楽づくりで絶賛を呼んだことは周知の事実である。だがしかし、当時何よりも話題が沸騰したのは、「ザグレブ国立歌劇場合唱団」の迫力だった。「ボリス・ゴドゥノフ」の戴冠式の場面や群衆蜂起の場面はもちろん、「イーゴリ公」の出陣の場、公妃ヤロスラヴナと貴族たちの対話の場、ポロヴェッツ軍接近に動揺する貴族たちと群衆の場などにおけるその合唱の重量感の凄さたるや、筆舌に尽くせないものがあった。
それまでに「人間オルガン」と綽名(あだな)されたドン・コサック合唱団が日本のファンを驚かせ、あるいは1963年のベルリン・ドイツ・オペラの合唱団がオペラのコーラスの真髄を示してくれたなどと言われたこともあった。だがこのザグレブの合唱団のように、怒涛の勢いで聴き手に迫って来るオペラの合唱というのは、われわれがかつて聴いたことのないものだったのである(当時はソフィア国立歌劇場合唱団も凄かった。「イーゴリ公」のCDがワーナーから復刻されている)。今日、こういう陰影豊かな音色と力とが備わった合唱団を擁する歌劇場は、世界のどこに存在するだろうか?

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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