第40回 「親父の一番長い日」初演 新日本フィルの軽井沢音楽祭

「軽井沢音楽祭」 指揮者なしの野外コンサートの様子
「軽井沢音楽祭」 指揮者なしの野外コンサートの様子

1970年代から80年代前半にかけての毎年8月半ば、軽井沢の晴山ホテル(現・軽井沢プリンスホテル)で新日本フィルハーモニー交響楽団が開催していた「軽井沢音楽祭」のことを記憶している方は、どのくらいおられるだろうか。ホテルの中にある、黒川紀章氏設計になるという驚異的に素晴らしい音響のダイニングルームで行われる「室内コンサート」と、庭に面した広いテラスをステージに設えた野外コンサートというのがあって、宿泊客や一般客の間ですこぶる高い人気を集めていた。

 

室内コンサートはモーツァルトやシューベルト、ドビュッシーなどの交響曲や協奏曲や室内楽のプログラムによる本格的な演奏会で、筆者は当時FM東京の「新日本フィル演奏会」の番組でほぼ毎年収録して放送していたものである。いい音、いい演奏の、いいコンサートだった。ただ、演奏中に、軽井沢駅の電気機関車の警笛がしばしば——それも実にいいタイミングで——紛れ込んで来るのには閉口したが。

 

一方、野外オーケストラ・コンサートは、にぎやかで華やかだった。ステージ前の椅子に座って聴く人々もいれば、庭の樹々の下でトウモロコシをかじりながら耳を傾けるカップルもいた。このコンサートを仕切り、指揮していたのは、あの「ヒゲの指揮者」山本直純さんだった。すでに数年前から「大きいことはいいことだ」というチョコレートのテレビCMで全国にその顔と名を知られ、併せて新しく始まったテレビ番組「オーケストラがやって来た」のホストとして人気を集めていた山本直純さんだったから、彼がステージに立つということだけで、お客さんは喜んだのである。

 

そしてまた、この野外コンサートには、クラシック音楽ジャンルではないアーティストも、ゲスト出演していた。ペギー葉山、尾崎紀世彦、ダーク・ダックス、松任谷由実、子門真人……。軽井沢の別荘に滞在中の横溝正史氏がいきなりステージに現れ、聴衆を沸かせたこともある。折しも当時は、「横溝正史ブーム」のさなかだったのだ。

 

1978年8月18日の野外「スペシャルコンサート」。スッペの「軽騎兵」序曲やベルリオーズの「ラコッツィ行進曲」に続き、さだまさしさんが新日本フィルをバックに、長大な自作曲を歌って世界初演したのは、まさにこの日、この演奏会でのことだった。その曲こそが、「親父の一番長い日」だったのである。

 

この曲の作曲を彼に勧めたのは、直純さんだったそうである。さださんは、プログラム冊子にこう書いている——「ある日お髭の大先生が僕の肩をぽいと叩いてね、例のドラムカンをけとばしてひっくり返した雷様の親類みたいな笑い声でね、『さだ君、軽井沢へ来るべし。新曲つくるべし。長――――いのつくるべし』。そこで僕も根性出してね。全部で15分もかかっちまうような長――――い曲を、娘を嫁にやる父親の唄を作った訳です。苦労したんだから。だいいち、オーケストラと歌うなんて、生まれて初めての事でして……」。

 

ただこの日、この曲を初演した指揮者は、直純さんではなかった。彼は直前の某不祥事のために出演を自粛していて、代わって指揮をしたのは、岩城宏之さんだった。

 

あの演奏会の雰囲気を、筆者は今でも忘れることができない。歌が進むにつれて客席は静まり返り、周囲に立ったまま聴いていた聴衆も、身動き一つしなかった。最初のうち少し動き回っていた関係スタッフも、みんな立ち止まって聴き入っていた。驚いたことに、離れた場所で遊んだり、散歩したりしていた人たちさえ、芝生に腰を下ろしてじっと聴き入っている、という情景が見られたのである。演奏が終わると、静かな拍手が起こり、それは次第に大きくなっていった。そして長い拍手が終わると、岩城宏之さんが、ちょっと震えた声で、ゆっくりとこう言った——「いい曲を聴いたあとで……それに今の曲についてもっと考えてみたいし……」。そして突然「休憩します」と一言、まっすぐ楽屋の方へ引き揚げていった。

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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