先頃、クリスティアン・ツィメルマンが、「プレリュード&Co(その仲間たち)」というのを弾いた。これは、古今の作曲家たちによるいろいろな「前奏曲集」から彼自身が全17曲を選曲して配列したものだった。だれかひとりの作曲家の「前奏曲集」全曲ではないところが特徴だ。それはツィメルマンにとっての独自の「いいとこ取り」だったのかもしれない。
その「いいとこ取り」の選曲を聴きながら、ふと思い出したことがある。私がオペラ講座などで逢うお母さんたちから、時々相談を受けるあの話である。曰く、ウチの子にCDでシンフォニーとかオペラとかを聴かせたいと思うんですけど、すぐ退屈して「長い」と言ってやめちゃうんですよ。今の子は、「長い」のはだめなんでしょうかねえ——という質問。
「曲の最初からちゃんと聞かせようとするから、そうなっちゃうんですよ」と私は答えることにしている。「いいとこ取りで聞かせたらどうですか。曲の途中でもどこでも、面白いところだけをまず聴かせてみるんです」
名曲には多くの場合、ここぞ聴きどころだ、という仕掛けが仕込まれている。たとえば、「新世界交響曲」なら、第2楽章のあの有名な主題であろう。「メサイア」なら、当然あの「ハレルヤ・コーラス」である。とはいえ、モーツァルトの交響曲第40番や、ベートーヴェンの「運命」なら、冒頭から聴かせてもいい。一瞬で興味を感じれば、たいていの子は食いついて来る。もちろん好みにもよるし、そんなことをしないでも長いシンフォニーを聴くようになった子もいるし、小澤征爾さんや井上道義さんの指揮をテレビで視たのがきっかけで、という子がいたのも知っているが、それは別として——。
実は私自身にも、こんなきっかけがあった。初めて夢中になったシンフォニーは、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」だったが、それは親類が預けて行った78回転5枚組のSPレコード(昔の話ですから)を聴いた時だった。1枚目に針を下ろしたものの、何だか暗くて重くて、一向に面白くない。そこで聞くのを一度止めてしまったのだが、何かのはずみで、4枚目のB面に針を下ろしてみたのである。第3楽章の後半、速いテンポのリズミカルな曲が始まった。音楽が爆発したかと思うと、すぐ静まり、そして最弱音のホルンから始まって主題の断片がいろいろな楽器に目まぐるしく受け渡されつつ、みるみるクレッシェンドして行く。その個所のスリリングな盛り上がりにすっかり心を奪われ、一気にその面の終り(楽章の終り)まで聴いてしまった。さあそれからは興味が湧き、A面に戻って第3楽章の初めから聴き、次に3枚目のウラオモテに入っている第2楽章を全部聴く。それからやっと、第1楽章はどんな音楽なのかな……と、そんな具合だったのである。
ワーグナーの「ニーベルングの指環」に夢中になったきっかけも、似たようなものだった。音楽之友社から1950年代に出た「名曲解説事典」の解説をまず読み始めたのだが、話がややこしくてさっぱり解らない。面倒くさいからもう止めた、と思ったところへ、偶然ラジオで聴いたのが、フルトヴェングラーの指揮による「ワルキューレの騎行」だった。初めて聴くその威圧的な音楽、繰り返される「ワルキューレの動機」の強烈さにすっかり圧倒され、やがてその音楽が夜となく昼となく、私の頭の中で鳴り続けるにいたる。そうなるともう自然な流れで、NHKラジオの暮れのバイロイト特集を聴きながら、その「ワルキューレの動機」がいつ出て来るか待ち構えるようになり、かくしていつのまにか全曲を……という次第なのだった。もしあの頃、だれかから、「指環」を聴くなら、そんな「いいとこ取り」なんていう聴き方ではなく、ちゃんと「ラインの黄金」の初めから筋を追って聴け、などと四角四面に強制されていたら、私はとても今のような熱烈なワグネリアンにはなっていなかっただろうとまで思うのである。
とうじょう・ひろお
早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。










