連載100回記念 「私流コンサートの楽しみ方」

指揮者とオーケストラの関係性も音楽に表れる=サイモン・ラトル指揮バイエルン放送交響楽団 2024年来日公演より 提供:ジャパンアーツ (C)Naoya Ikegami
指揮者とオーケストラの関係性も音楽に表れる=サイモン・ラトル指揮バイエルン放送交響楽団 2024年来日公演より 提供:ジャパンアーツ (C)Naoya Ikegami

この連載が100回目ということで、今回は、私なりのコンサートの楽しみ方について書きたいと思う。

録音再生技術や放送、配信が発達する前の何百年もの間、基本的に音楽は、音だけを聴くものではなく、目の前の演奏者を見て聴くものであった。パガニーニやリストへの聴衆の熱狂も単に音だけでなく、パフォーマンス全体へのものであったに違いない。

しかし、レコードやラジオの発達により、人は音楽を音だけで楽しむことが多くなった。それは、誰もがそれ以前よりも手軽に音楽に触れられ、圧倒的にリスナーが増えたという意味で、良いことであった。そうして、音楽は、音を聴くものだから、出てくる音だけで語るのが本筋であるという考え方が優勢になっていった。

そうではあるが、私は、コンサートの楽しみとして、見ることも重要だと思っている。私がオーケストラのコンサートで文字通り〝注目〟しているのは、指揮者とオーケストラの関係性や化学反応、そして楽団員たちのやりとりである。プレイヤーの表情が結果として音楽に表れることは多い。私のような連日コンサートに通う者は、まず、今日の指揮者とオーケストラの関係はどうかなというところに目が行く。

昔の日本のオーケストラは、弦楽器が弾き終わったときに弓をあげることをしなかった。弓をあげてもあげなくても音は変わらないし、そういう外見は音楽と無縁という考えだったのであろう。でも、聴衆は、弓をあげて終えた方が、音が飛んでくるような印象を受ける。そういう視覚的な効果は邪道ではないし、近年は積極的にオーケストラも取り入れている。

昨年、サイモン・ラトルがバイエルン放送交響楽団と来日したときの模様がテレビで放送されていたが、マーラーの交響曲第7番のリハーサルで彼は楽団員にこう指示していた。

「実際に音が変わったかどうかは別として、そこで弓を長く動かした方が音が伸びている気がするよ」

コンサートというのは、出演者と聴衆で成り立っているものであり、その会場の空気感も鑑賞の大きな要素になっていると思う。ほとんど人のいないホールの沈黙と2000人満席のホールの沈黙では同じ無音だとしても空気感が明らかに違うわけで、それは演奏者にも聴き手にも心理的な影響を及ぼす。また、演奏が終わったときの沈黙も、自発的なものと(事前のアナウンスなどで)強制されたものとは質的に違う。ときには早い拍手や「ブラボー」の掛け声によって残念な気持ちになることもあるが、それらを含めてコンサートだと私は思う。

コンサートとはつまるところ、耳だけではない、五感のいくつかを使っての総合的な体験(五嶋みどりのいうところの「トータル・エクスペリエンス」)であるに違いない。かつては、録音再生技術の発達によって、コンサートの存続を危ぶむ(聴衆がCDや放送にとられてしまうと危惧する)声もあったが、今はそう考える人は少ないだろう(クラシックの聴衆の高齢化や減少は大問題ではあるが)。人々は、1回きりのライヴの楽しみと再生された音楽の楽しみとは別物であることに気づいた。

私は、これからもできるだけ多くの人々にオーケストラのコンサートを体験して、楽しんでいただきたいと願っている。

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山田 治生

やまだ・はるお

音楽評論家。1964年、京都市生まれ。87年、慶応義塾大学経済学部卒業。90年から音楽に関する執筆を行っている。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人」「トスカニーニ」「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」、編著書に「オペラガイド130選」「戦後のオペラ」「バロック・オペラ」などがある。

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