静かな、憂いを含んだ、しかしとても幸福なひと時――フォルテピアノの儚げな音の生命を存分に味わった演奏会
北村朋幹はたしかに演奏家であるが、第一に、注意深い聴き手である。それは、今回をもって本邦初公開となったフォルテピアノ演奏でも変わらなかった。音は刻々と消え去る。けれども消滅と引きかえに、その先の予感のようなものを残してゆく。北村は、絶えずそれに耳を澄ますのだ。長くのばされた音が余韻と化すときに、それが最もよく分かる。最終演目、シューマンの「幻想曲ハ長調」でいえば、終楽章の中央で現れるフェルマータのあと。彼はきわめて長い空隙を置いたが、それは少しも「空」ではなく、予感に感応した大いなる期待の時間である。これがあるからこそ、次にくる音楽が別世界のように響くのだろう。ペダルで音を変えたから、といった説明で済むような話ではない。
モダンピアノを弾く場合と変わらない、とはいえ、もちろん楽器(タカギクラヴィア所蔵のヨハン・クレーマー 1825年ウィーン製)の音自体は違うわけで、北村は、その儚(はかな)げな音の生命を、色あいを、存分に味わっているようだ。ドイツで学んだピリオド奏法の知見が大いに活かされているに違いない。そして、シューマン「幻想曲」のここぞという所で現れる、ベートーヴェンから引き継いだ「遥かなる恋人に寄す」の旋律を、この日のモットーに据えた。それが証拠に、彼は最初の演目ベートーヴェン/リストの「ミニョン」を始める前に、あの旋律をシューマン・ヴァージョンでさらりと弾いてみせた。それもごく「遥かな」音で。
恋人クララに寄せたシューマンの憧れを、いわば「手の届かないどこかへの憧れ」といった、より普遍的なテーマに敷衍(ふえん)してゆく――詩的想像力を刺激する、見事なプログラムであった。リストの「オーベルマンの谷」では、後半、劇的な和音連打が楽器のキャパシティを越え出たようにも思えたが、「幻想曲」第2楽章の付点乱舞が、これほど濁りなく聞こえたのもまれだ。
本編終了後は、簡潔なトークをはさんで、「アルバムの綴り」等からシューマンの小品を5曲披露。どこか「木質の」と呼んでみたくなる、静かな、憂いを含んだ、しかしとても幸福なひと時が、そうして幕を閉じた。
(舩木 篤也)
公演データ
北村朋幹フォルテピアノ・リサイタル― シューマン「幻想曲」をめぐって
10月26日(土)16:00北とぴあ さくらホール
プログラム
ベートーヴェン/リスト:ミニョンS.468-1「ベートーヴェンによる6つのゲーテ歌曲集より」
ベートーヴェン/リスト:連作歌曲集「遥かなる恋人に寄す」S.469
シューマン:「管弦楽のない協奏曲」Op.14(1836) より〝変奏曲風に〟(後に削除された2つの変奏曲を含む、自筆譜に基づく版)
リスト:オーベルマンの谷S.156-5「旅人のアルバム」より
シューマン:幻想曲ハ長調Op.17
アンコール
シューマン:
アルバムの綴り Op.124より 8.終わりのない痛み、11.ロマンス
こどものためのアルバムOp.68より14.小さな練習曲 、35.ミニョン、44.隠れているかっこう
ふなき・あつや
1967年生まれ。広島大学、東京大学大学院、ブレーメン大学に学ぶ。19世紀ドイツを中心テーマに、「読売新聞」で演奏評、NHK-FMで音楽番組の解説を担当するほか、雑誌等でも執筆。東京藝術大学ほかではドイツ語講師を務める。共著に『魅惑のオペラ・ニーベルングの指環』(小学館)、共訳書に『アドルノ 音楽・メディア論』(平凡社)など。