東京・春・音楽祭2024
東京春祭ワーグナー・シリーズvol.15「トリスタンとイゾルデ」

「トリスタン」を知り尽くしたヤノフスキの指揮、N響を奮い立たせる

NHK交響楽団が「トリスタンとイゾルデ」全曲を演奏するのは1967年の第10回大阪国際フェスティバル、「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」と銘打たれた公演(ヴィーラント・ワーグナー演出の舞台上演、ピエール・ブーレーズ指揮で4月7、10、13、16日の4公演)以来57年ぶり。当時の楽員全員が引退した今「全曲のリードやペース配分にはオペラ経験豊富なコンサートマスターが必要」との判断からメトロポリタン歌劇場管弦楽団(METオーケストラ)のコンマス、ベンジャミン・ボウマンがゲストに招かれた。隣席は4月1日から第1コンサートマスターに就任する郷古廉。明るくオープンな人柄というボウマンはN響に溶け込み、素晴らしい統率力を発揮した。

「トリスタン」を知り尽くすヤノフスキがN響を奮い立たせた(C)平舘平/東京・春・音楽祭2024
「トリスタン」を知り尽くすヤノフスキがN響を奮い立たせた(C)平舘平/東京・春・音楽祭2024

指揮のマレク・ヤノフスキはすでに東京春祭ワーグナー・シリーズの「リング(ニーベルングの指環)」4部作や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」などでN響と共演、定期演奏会の指揮台にも招かれている。85歳の高齢にもかかわらず俊敏なタクト捌(さば)きでN響を駆り立て「これぞ、ワーグナー!」というボリュームと精妙さ、透明度を兼ね備えたサウンドを快速テンポのうちに引き出す。新国立劇場のピットに入った大野和士指揮東京都交響楽団の淡彩画風の響きとは全く対照的だ。2週間あまりの間に2種類の「トリスタン」全曲を堪能できる東京はやはり、世界屈指の音楽都市なのだろう。

 

ヤノフスキの究極の職人芸を感じたのは、音色のコントロールだった。第1幕の前奏曲からしばらくの間、とりわけイゾルデとブランゲーネのやりとりが中心のうちは音量だけでなく音色の幅も控えめにとる。トリスタンとイゾルデが禁断の媚薬(びやく)を飲んだ瞬間、色彩感とボリュームを全開にして、聴き手まで何かを飲んでしまった気にさせた。

 

音量の差配はドラマ設計だけでなく、キャストへの配慮も兼ねていた。イゾルデのビルギッテ・クリステンセンは骨太で翳(かげ)りのある音色こそ役柄に適しているのだが、声量が絶対的に不足、管弦楽が大音量の場面では絶叫のあまり、歌詞が聴き取れなくなる。ブランゲーネのルクサンドラ・ドノーセは2005年10月、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅥ「セビリアの理髪師」のロジーナ役を同じ東京文化会館大ホールで歌った際はロッシーニ・メゾだった。ワーグナーまで声を拡張するには時間を費やしたはずだが、藤村実穂子のようにドイツ語を深く鋭く歌い込む重量感に欠け、やはり大音量に埋もれがち。2人とも管弦楽が穏やかな第2幕で、最良の歌を聴かせた。クリステンセンが本来すぐれた音楽性の持ち主であることは、大詰(づ)めの「愛の死」で確かめることができた。

管弦楽が穏やかな第2幕で最良の歌を聴かせたイゾルデ役のクリステンセン(写真左)とブランゲーネ役のドノーセ(写真右)(C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024
管弦楽が穏やかな第2幕で最良の歌を聴かせたイゾルデ役のクリステンセン(写真左)とブランゲーネ役のドノーセ(写真右)(C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024

男声陣の水準は総じて高い。クルヴェナールのマルクス・アイヒェが多様な情感を滲(にじ)ませながら歌い出し、ようやくドイツ語の世界が始まった。トリスタンのスチュアート・スケルトンの発音も明晰(めいせき)、ヘルデンテノール(ワーグナーなどの英雄的役柄を担う重量級のテノール)と呼べるだけのパワーと重みがあってうれしい。媚薬の場面でミネラルウォーターをゴクンと飲むなど、愛嬌(あいきょう)もある。圧巻は暗譜で臨んだマルケ王のドイツ人バス、フランツ・ヨゼフ・ゼーリヒ。1962年生まれのベテランだが、衰えを知らない深々堂々の声で内面から語りかけてくる歌詞の一言一言が胸を打つ。近年は東京藝術大学をはじめとする教授活動が多忙な甲斐栄次郎だが、2003年から10シーズン、ウィーン国立歌劇場専属で336公演に出演して蓄えた演技の勘は今も健在。メロート役では折目正しいディクション、演奏会形式でも「舞台の人」の存在感を印象づけた。牧童の大槻孝志、舵取りの高橋洋介、若い船乗りの声の金山京介も適材適所の配置だった。

トリスタン役のスケルトンの声には、ヘルデンテノールと呼べるだけのパワーと重みがあった(C)平舘平/東京・春・音楽祭2024
トリスタン役のスケルトンの声には、ヘルデンテノールと呼べるだけのパワーと重みがあった(C)平舘平/東京・春・音楽祭2024

N響は一部の管楽器奏者を途中で交代させるなど、歌劇場オーケストラ並みのシフトを組んだ。第3幕コールアングレの池田昭子、ホルツトランペットの菊本和昭それぞれのソロには舞台上手(客席から見て右側)際手前の特別席が与えられて光栄な半面、厳格なマエストロの至近ではすごいプレッシャーだったに違いない。それを見事にはねのけ、素晴らしい妙技を披露したのは立派だった。

(池田卓夫)
※取材は3月27日(水)の公演

公演データ

東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.15「トリスタンとイゾルデ」(演奏会形式/字幕付)全3幕

2024年3月27日(水)、3月30日 (土) 15:00東京文化会館 大ホール

指揮:マレク・ヤノフスキ
トリスタン(テノール):スチュアート・スケルトン
マルケ王(バス):フランツ・ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ(ソプラノ):ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール(バリトン):マルクス・アイヒェ
メロート(バリトン):甲斐栄次郎
ブランゲーネ(メゾ・ソプラノ):ルクサンドラ・ドノーセ
牧童(テノール):大槻孝志
舵取り(バリトン):高橋洋介
若い船乗りの声(テノール):金山京介
管弦楽:NHK交響楽団(ゲストコンサートマスター:ベンジャミン・ボウマン)
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
管弦楽:NHK交響楽団(ゲストコンサートマスター:ベンジャミン・ボウマン)

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池田 卓夫

いけだ・たくお

2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。

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