バリトン歌手 加耒 徹

加耒徹(かく とおる)を初めて聴いたのはいつだったろうか。バッハ・コレギウム・ジャパン(以下BCJ)のバッハのカンタータだったと思うが、「マタイ受難曲」のイエスのときには明るくよく響く、若々しい美声の端正でみずみずしい歌声に新鮮な感銘を覚えたものだ。バロック歌唱のスペシャリストだが、それだけではない。バロックから現代音楽まできわめて幅広いレパートリーを誇るバリトン歌手、加耒徹に話を聞いた。

(聞き手 那須田 務)

11月19日に東京オペラシティ コンサートホールで「ノスタルジック・ショパン」と題したコンサートを開催する加耒徹
11月19日に東京オペラシティ コンサートホールで「ノスタルジック・ショパン」と題したコンサートを開催する加耒徹

加耒 実は(東京藝術大学の)学生時代にはオペラや歌曲など通常の声楽のレパートリーが中心でした。修士論文も20世紀のイギリスの作曲家フィンジの歌曲でしたし。声楽を専攻する以前はヴァイオリンを弾いていたので、バッハは難しいなあと思っていました。BCJで歌うようになったきっかけは、大学の特別企画で鈴木雅明さんがヘンデルの「アリオダンテ」を指揮した時にオズワルトで出演したことでした。主にレチタティーヴォだけの役でしたが、その後ほどなくしてBCJから出演のオファーをいただきました。

——加耒さんはバリトンですが、バッハは4声体が基本なのでバスということになりますね。

加耒 そうです。最初は合唱でしたが、BCJは各パートがおよそ3人でその中の一人がソロを歌います。その後ほどなくしてソロも歌うようになりました。イエスのオファーが来たときにはたまげましたね。本当にいいのかなって(笑い)。

——BCJのイエスといえば、マックス・ファン・エグモントやペーター・コーイら名歌手たちが歌ってきました。

加耒 本当に名誉なことです。合唱の時もペーターの横で歌い、ペーターのソロを聴いて古楽のアプローチを初めて知りました。歌手は声に意識がいくからか、どうしても音程は二の次になってしまいがちですが、彼らは違う。ペーターのイエスも同じステージで何度も聴きました。いまだに脳裏に焼き付いています。そんなイエスを歌うとあって、最初は心配だったのですが、雅明さんは、実際のイエスも(受難の時には)30台前半の青年なので、そのまま普通に歌っていいよと言ってくださった。でもやはりイエスですから、弱々しくならないように、ステージの上で出来るだけ動かないように努めました。

——バロックは通常のレパートリーとは違うでしょう?

加耒 ええ、やはりプッチーニを歌うのとは違います。そもそもピッチが通常よりも半音ほど低い(いわゆるバロック・ピッチのA=415Hz)。歌手には、その音にはその声のポジションで歌うという意識がありますから、最初は驚きでした。絶対音感もあったし。最初は大変でしたが、歌っているうちにある時を境にぱっとできるようになった。和音を感じて歌うのです。正しいミの音を出すのではなく、たとえばソドミの和音のミを感じてそこに(声を)当てはめる。それができるようになると面白くなります。それからバロックは音楽全体の中に歌を入れ込む感じなので、楽曲の構造を理解し、和声を感じながら歌うことが大事。そういうときに思い切りヴィブラートをかけて歌うと和音の魅力が損なわれてしまう。器楽奏者のように音楽を捉えますが、そこに歌詞がついているということでしょうか。さらにいえばバッハの場合は「十字架の音型」などパッセージの形が重要になります。そこに良い発声が乗っている。もちろんイタリアのカンツォーネなどでは思い切り声を出すわけですが。その点でヴェルディは本当に声が分かっていますね。ちゃんとした発声をしていれば歌える。このように作曲家によって焦点の当て方が違うところが面白いですね。

那須田務氏(左)の取材に応える加耒徹
那須田務氏(左)の取材に応える加耒徹

——幅広いレパートリーをお持ちですが、学生時代によく聴いた音楽は?

加耒 ヴァイオリンをやっていたのでオーケストラ作品ですね。特にベートーヴェン。今ではメンデルスゾーン、ブラームス、シューマン、マーラー。ヴァイオリンは高校2年生までで、部活ではオーボエを吹いていました。ヴァイオリンはいろいろな意味で大変。音楽家になりたくてとりあえず音楽大学に入れば道が開けると思って高校1年生から声楽を平行して習い始めたのですが、そのまま歌い続けています(笑)。

スコアを読むのが好きなので、指揮にも興味があります。学生にはサイモン・ラトルとか、チョン・ミュンフンの演奏をよく聴きました。自分の意志がしっかりある毅然(きぜん)としたタイプの指揮者が好きですね。自分でも合唱団を振っていますが、いつかオーケストラを指揮してみたい。

歌でよく聴いたのは、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウですね。彼からも多くを学びました。憧れの存在でした。彼のようにさまざまな国と時代の歌曲を歌っていきたい。ドイツやロシア、イギリスの歌曲、現代曲。もちろん「冬の旅」や「詩人の恋」にもじっくり取り組みたい。いずれにしても、私は音楽作品そのものに関心があるので、ディースカウのように自分の声をいろんな作曲家に投影できるような歌手になりたい。それも、バッハの時にはバッハの声、ロマン派ものはロマン派らしい声と歌というようにさまざまな時代の曲をそれにふさわしい演奏で歌う。オペラではもっとバロック・オペラを歌いたい。私は芝居そのものが好きなのでモーツァルトも。モーツァルトのオペラは音楽そのものが芝居ですから。日生劇場でひと通りの演目を歌わせていただきました。

譜読みが速くてソルフェージュが得意なんですよ。そういうこともあって二期会ではベルク以後のヘンツェや黛敏郎のオペラを歌いました。ベルク「ルル」の時には、ピンチヒッターでシェーン博士を一週間で覚えて歌いました。世界初演曲なども大歓迎です。現代音楽の譜読みは大変ですが、パズルを解いていくようで楽しい。

ショパンについての思いを語る加耒徹

——11月19日に東京オペラシティ コンサートホールで開催される「ノスタルジック・ショパン」について伺います。ショパンがテーマでショパンの歌曲やピアノ曲の他、ドニゼッティやベッリーニなど同時代の音楽が選ばれています。共演はフォルテピアノ奏者川口成彦さんと、モダンとピリオド楽器双方で活躍するチェロの上村文乃さん。

加耒  ショパンが関わった人たちの音楽を聴いていただこうと思っています。おそらく、私がショパンの友人のフォンタナに扮(ふん)して語り、ショパンの生涯を追っていくようなコンサートにしたいと思います。ショパンのチェロ・ソナタも4つの楽章を前半と後半にちりばめ、ショパン以外の作曲家の曲も含めて、彩り豊かなプログラムになっていると思います。

——ショパンとシューマンは同じ年で親しく交際していましたし、ショパンはパリで熱心に歌劇場に通い、弟子たちにもベッリーニのオペラを聴くように勧めていますね。今回、川口さんがお弾きになるのはショパンの時代の(ピアノ)プレイエル。独特な薫りのあるサウンドと繊細な表現が魅力ですが、この楽器で加耒さんがどのような歌を歌われるのか楽しみです。

加耒 ショパンの歌曲はメロディーが民謡的。その点でブラームスの歌曲に通じます。シューマンの「詩人の恋」から〝美しき五月に〟を歌いますが、和声の響きに乗ってドイツ語を語るように歌おうと思います。イタリア語のベルカントのオペラはあまり歌ってこなかったのですが、よい機会だと思っています。

——通常のショパンのコンサートとはひと味もふた味も違うものになりそうですね。今日はありがとうございました。

加耒 徹 Toru Kaku

東京藝術大学大学院首席修了。大学院アカンサス賞受賞。二期会オペラ研修所を総代で修了。最優秀賞および川崎靜子賞受賞。バロックから現代音楽まで多くのジャンルを演奏しており、バッハ・コレギウム・ジャパンでは「マタイ受難曲」のCDに参加する他、2021年1月の「エリアス」ではタイトルロールを務め絶賛された。2026年3月から4月にかけて開かれるオランダ・バッハ協会の「マタイ受難曲」公演のソリストに抜てきされ、オランダ各地での13公演の出演が予定されている。オペラシティ財団主催リサイタルシリーズ「B→C」では東京、福岡両公演満席の中、10カ国語による歌曲プログラムを熱演。また、オペラでの活躍もめざましく、日生劇場「ドン・ジョヴァンニ」タイトルロール、「コジ・ファン・トゥッテ」グリエルモ、「ランメルモールのルチア」エンリーコ、二期会「金閣寺」鶴川、「ルル」シェーン博士、「こうもり」ファルケ等、数多くの作品に出演。23年7月に4thアルバム「A Time for Us」をリリース。NHK「リサイタル・ノヴァ」「名曲アルバム」「すくすく子育て」、テレビ朝日「題名のない音楽会」等メディアにも多数出演。洗足学園音楽大学非常勤講師。

公演情報

アフタヌーン・コンサート・シリーズ2025-2026
~フレデリックが愛したプレイエル~
ノスタルジック・ショパン

11月19日(水) 13:30 東京オペラシティ コンサートホール

バリトン:加耒徹
チェロ:上村 文乃
フォルテピアノ:川口 成彦

プログラム
ショパン:
 ・チェロ・ソナタ ト短調 op.65
 ・ポロネーズ第11番(遺作)
 ・ノクターン第20番(遺作)
 ・練習曲集 op.10より「革命」
 ・ワルツ第4番
 ・前奏曲集 op.28より「雨だれ」
 ・17のポーランドの歌 op.74より「乙女の願い」
ドニゼッティ:歌劇「ドン・パスクアーレ」より「天使のように美しい娘」
ベッリーニ:歌劇「清教徒」より「ああ!永久に君を失った」ほか

リサイタルの詳細は下記URLから
https://www.japanarts.co.jp/concert/p2154/ 

 

連載記事 

新着記事