自分としては同じことを80年続けてきただけ。ピアノを弾いていることが命の証です〜ピアニスト舘野泉、「卒寿記念コンサート」を語る
過去60年にわたって日本とフィンランドを拠点に活躍してきたピアニスト、舘野泉(1936年11月10日生まれ)が11月2日、〝数えで90歳〟の「卒寿記念コンサート」をサントリーホールで開く。2002年1月に脳溢血(のういっけつ)で右半身不随となるが、1年7カ月後に「左手のピアニスト」として復活。以後、自身の委嘱や献呈を合わせて10カ国の作曲家による130曲以上の左手の新作を世界初演してきた。近年のステージでは一切の自我を超克、音楽だけが自然現象のように広がる境地に至り、レジェンド(伝説)の名をほしいままにしている。今回も舘野が世界初演したアイスランド、フィンランド、アルゼンチンの作曲家の作品を並べ、「彼の音楽を彼が弾く」のサブタイトルを添えた。
(取材&執筆=池田卓夫)

卒寿コンサートにかける旺盛な意気込み
——卒寿(90歳)への感慨はありますか?
舘野 この部屋で生まれ、戦争中の一時的な疎開の期間を除き、90年近くを過ごしてきました。身体上の障害は持って当たり前ですし、〝向こう側〟と〝こちら側〟の世界の二股をかけている感じはあります。僕に未練や執着はなく、長く生き続けたいとも死にたいとも思いません。別にどうということもなく、当たり前の世界に終わりが来たら終わり。弾ける時まで弾き続けて行きます。弾けることが、ひとつの命の証(あかし)です。
——舘野さんはフィンランド人ソプラノ歌手のマリア・ホロパイネンさんと結婚され、1964年からヘルシンキに居を構えて以降、北欧音楽のスペシャリストと目されています。1972年にはマックスファクターのメンズ化粧品のCFに登場、ダンディーでクールな雰囲気でも評判を呼びました。
舘野 イメージとは、本当に困ったものです。コマーシャルをきっかけに40年近く〝静かな人〟と思われてきましたが、実際は全然そうじゃない。ファンクラブ(筆者註:インターネットのフリー百科事典Wikipediaに〝日本のクラシック音楽家で初めてファンクラブが設立された人物〟と記されている)も、自然発生的に増えていっただけです。〝北欧音楽のスペシャリスト〟のレッテルにも閉口しました。僕自身はあらゆるレパートリーをずうっと、全く分け隔てなく弾いています。たまたまフィンランドに住んでいただけであり、北欧音楽に身を捧げるつもりはありませんでした。
——私は舘野さんが渡邉曉雄さんの指揮で演奏したラフマニノフやブラームスのピアノ協奏曲が好きでしたし、シューベルトのソナタの録音を取材したこともあります。
舘野 自分にとって、弾いていて楽しいレパートリーの筆頭はムソルグスキー、ヤナーチェクです。さらにハチャトゥリアン、ノルドグレン、間宮芳生……。ハチャトゥリアンの協奏曲は世界各地で30回以上、演奏しました。日本のレコード会社は長く全曲録音が好きでしたから東芝EMIの専属アーティストだった時代、プロデューサーの花田正彦さんの求めに応じてシベリウスのピアノ曲全集、グリーグの抒情小曲集全曲などの北欧音楽をLPにして約30枚録音しましたが、自分にとっては通過点であり、まだその先のレパートリーがあると確信していたのです。何か変わったことをやっている意識はまるでなく、色々な音楽が好きなので、できれば全部弾いてみたいと考えます。
新たに加わった〝左手のピアニスト〟のレッテル

——さらに、〝左手のピアニスト〟のレッテルが加わりました。
舘野 そうです。皆さん、〝左手〟を一つのエポック(時代)として区切ろうとされます。僕自身には左手で弾いている、左手のために演奏しているという感覚が全然ありません。それ以前と何ら変わりなく、音楽を続けているだけです。左手だけで演奏すると聞き、「不自由でしょう」「音が少なくて寂しいでしょう」と言われるのですが、そんなことは絶対にありません。偏見です。左手だけでも音はたくさんあります。もちろん体のリーチ(到達範囲)とか、ひねり具合とか、肉体的に難しいことは出てきます。でも、難しいのは何でも同じ。両手で弾くピアニストにだって、さまざまな困難がつきまといます。
――左手の演奏歴も20年を超えました。最近の演奏を聴き、時に批評も書きながら思うのは、あらゆるエゴを超越した音楽が、自然界の息遣いと一致している感触です。
舘野 最近とみに思うのは、音楽とは、一つの曲の中にいくつもの沈黙、ポーズ(休止)があり、いつでもそこに収斂(しゅうれん)していくものなのではないかということです。その空間、ちょっとした息の使い方の凄み! 音のないところの語りかけの大きさを改めて思います。間(ま)ともいえる存在を最初に意識したのは中学生時代、隣の家のラジオでシベリウスの交響曲第7番と交響詩「タピオラ」を聴いた時でした。特に「タピオラ」の始まりから少し進んだところで、オーケストラの音が消えてなくなる一瞬を今も強烈に覚えています。「この人は西欧の音楽家とは全く違う」と思い、音楽の中にある隙間や断崖絶壁を初めて知りました。

——「卒寿記念コンサート」の作曲家、作品も西欧の流儀とは一線を画す人たちです。1曲ずつ、お話をうかがいたいと思います。最初はアイスランドの作曲家トルドゥル・マグヌッソン(1973~)の組曲「アイスランドの風景」2013)です。
舘野 マグヌッソンには過去30年、色々と書いてもらっています。「アイスランドの風景」も僕の委嘱作です。同じ北欧でもスウェーデンやノルウェー、デンマーク、フィンランドに比べると、日本でのアイスランドに対するイメージは何もないに等しい。そこで、アイスランドの大気や自然全般にちなむ楽曲を頼みました。この5曲は見事な作品です。特に第4曲「うららかなひと時、夏至の深夜の煌々と明るい夜に」と第5曲「大河ラーガルフリョウトのほとりを歩く」の2曲は超スローテンポの静かな曲で、音がそれほど多くありません。時間がすごく充足して過ぎていく。人は孤独と共存して生きているとしても、それは一つのあり方で悪くはありません。孤独な時間をお聴きください。
——2曲目はペール・ヘンリク・ノルドグレン(1944~2008)の「小泉八雲の〝怪談〟によるバラードⅡ」(2004)です。
舘野 40年以上弾き続けている作曲家です。僕が1969年にヘルシンキでフィンランド放送交響楽団と矢代秋雄のピアノ協奏曲を演奏する際、楽曲解説の執筆者として現れ、無口で静かな男でしたが、矢代の音楽をレーザー光線で解読したような、すごい文章を書いたのに驚きました。〝ピアノ曲を作曲してほしい〟と頼むと、〝ピアノは弾けないし、好きではない〟と最初は拒みましたが、最終的に書いたのが強烈極まりない「耳なし芳一」だったのです。仙台市での世界初演にも立ち会い、終演後に〝これから自分のピアノ曲はすべて、お前に捧げる〟と宣言、10年で10曲も書いてくれました。一時の中断を経て、僕が左手のピアニストで再スタートをきる時に委嘱したのが「怪談」です。「振袖火事」「衝立の女」「忠五郎の話」の3曲からなります。怪談の語り部だと思っていたノルドグレンが亡くなり、僕が語り部となって不思議な世界を描くことに。8月29日にはヘルシンキの岩でできた教会、テンペリアウキオでもこの曲を演奏する予定です。
——「復活」(2013)を舘野さんの委嘱で書いたユッカ・ティエンスー(1948~)もフィンランドの作曲家ですね。
舘野 先鋭的な現代音楽の代表選手でありながら、古楽器(チェンバロ)の名手でもあります。原題の「Egeiro」は古代ギリシャ語で「大いなるもの」や「復活」の意味です。彼からそれ以上の説明はなく「人がそれぞれ聴いてくれれば、それでいい」といい、いつも聴き手の判断に委ねるのです。僕自身も話さず「実際に聴いてください」にとどめておきますが、とにかく衝撃的、すごい世界が現れます。
卒寿を迎えてもなお、新作初演にも積極的に挑む

——最後は日本在住のアルゼンチン人作曲家、パブロ・エスカンデ(1971~)への委嘱作 「奔放なカプリッチョ」〜ピアノと管楽器のための(2023)。指揮に平石章人、フルートに甲斐雅之、トランペットに辻本憲一と伊藤駿、トロンボーンに新田幹男とザッカリー・ガイルス、バストロンボーンに野々下剛一、ユーフォニアムに齋藤充と、共演者も素晴らしい顔ぶれです。
舘野 エスカンデには過去10年、毎年新作を委嘱していますが、1作ごとに工夫を凝らし、色々な面が出てくるので面白い。20歳までブエノスアイレス、40歳までオランダ、以後は京都在住です。ヤナーチェクに「カプリッチョ」という、左手ピアノと金管7本の変わった編成の作品があり、エスカンデに「同じ編成で書いてほしい」と頼みました。ヤナーチェクは内向的な響きが特色ですが、エスカンデは「奔放な」を付け加えただけあって、かなり弾けます。1度演奏しただけではもったいなくて、今回が3度目です。
——記念コンサートは過去の「左手」委嘱作の回顧展でもありますが、新作初演も依然、積極的に行なっていますね。
舘野 ごく最近では6月21日、福岡県の柳川市民文化会館のリサイタルで、ホールが九州の作曲家の熊本陵平さんに委嘱した新作「印象・柳川〜The stories of Yanagawa〜」を世界初演しました。30分の大作と聞いて身構え、作品が完成したのは5月でした。確かに30分かかりますが、1曲あたり1分から1分半の小さな12曲のセットが二つで全24曲という意表をつく構成です。それぞれが柳川の水の流れ、空気、そよ風などを想起させる静かな音楽。起承転結や展開があるわけではなく、一つの音価が長く、基本は沈黙の世界が支配します。聴衆がシーンと聴き込んでいたのも印象的でした。
東京・自由が丘のご自宅を訪ねたのは8月の猛暑のさなかだったが、舘野は疲れもみせずに90分間、音楽への深い愛を驚異の記憶力とともに語り続けた。帰り際にもう一度、「自分としては80年間、同じことを続けてきただけですから」と、ダメ押しをされた。
舘野 泉 Izumi Tateno
クラシック界のレジェンド、89歳ピアニスト。領域に捉われず、分野にこだわらず、常に新鮮な視点で演奏芸術の可能性を広げ、不動の地位を築いた。2002年に脳溢血で倒れ右半身不随となるも、しなやかにその運命を受けとめ、「左手のピアニスト」として活動を再開。尽きることのない情熱を、一層音楽の探求に傾け、独自のジャンルを切り開いた。
2006年に「舘野泉左手の文庫」を設立。“舘野泉の左手”のために捧げられた作品は10カ国の作曲家により130曲に及ぶ。 2012年以降は海外公演も再開しパリやウィーン、ベルリンにおいても委嘱作品を含むプログラムでリサイタルを行い満場の喝采で讃えられた。
2024年9月インド、ブータン、ネパールで演奏。現在、卒寿記念演奏会の全国公演を展開中。2025年は演奏生活65周年を迎える。もはや「左手」のことわりなど必要ない、身体を超える境地に至った「真の巨匠」の風格は、揺るぎない信念とひたむきな姿がもたらす、最大の魅力である。
舘野 泉公式HP https://www.izumi-tateno.com/
公演情報
舘野泉 卒寿記念コンサート – 彼の音楽を彼が弾く –
11月2日(日)14:00、サントリーホール
ピアノ:舘野 泉
指揮:平石 章人
フルート:甲斐 雅之
トランペット:辻本 憲一、伊藤 駿
トロンボーン:新田 幹男、ザッカリー・ガイルス
バストロンボーン:野々下 興一
ユーフォニアム:齋藤 充
プロクラム
◆マグヌッソン:組曲「アイスランドの風景」 (2013)
Ⅰ 東部の小川の滝
Ⅱ 鳥の目から見た高地
Ⅲ オーロラの舞
Ⅳ うららかなひと時、夏至の深夜の煌々と明るい夜に
Ⅴ 大河ラーガルフリョゥトのほとりを歩く
◆ノルドグレン:「小泉八雲の〝怪談〟によるバラード2」 (2004)
振袖火事・衝立の女・忠五郎の話
◆ティエンスー:復活 (2013)
◆エスカンデ:奔放なカプリッチョ ~ピアノと管楽器のための (2023)