演奏がはじまると興奮を抑えられなかった。オーケストラ・ピットから聴こえる音は、まぎれもないイタリアの輝きを発し、楽器たちは奏でられているというよりも歌っている。この手の音を東京文化会館で聴くのは何年ぶりだろうか。
6月15日、パレルモ・マッシモ劇場日本公演の初日。まだリハーサルも十分とはいえず、オーケストラばかりか、歌手たちにも合唱にも乱れるところはあったが、有無をいわさぬ力で胸に迫ってくる。多少の粗っぽさは、むしろほほ笑ましく思える。
そして、ロドルフォ役のヴィットリオ・グリゴーロの存在感が圧倒的である。リリックな声なのに高密度で厚みがあり、その声をみなぎらせた旋律を自在に伸縮させる。また、ダイナミックレンジがきわめて広く、感情表現の奥行きが深い。その歌はロドルフォを歌い演じているというよりグリゴーロそのものだが、それでもロドルフォと重なって見えるのは、歌に説得力があるからである。
こうして声を自在に操る能力があるだけに、レガートの旋律を思いきり引き伸ばしたり、拍を少しずらしてみたりと、少々過剰な表現に走りがちなのが、良くも悪くもグリゴーロらしさだが、指揮のフランチェスコ・イヴァン・チャンパは、そんなグリゴーロの「遊び」に見事に付き合ってみせる。歌手の呼吸を把握し、歌手のアドリブとオーケストラの演奏を鮮やかにかみ合わせる。歌手に気持ちよく歌わせながらも音楽を終始流し、流しながら盛り上げ、引き締める。しかも、すべてはドラマのツボと重なっている。
ミミ役のアンジェラ・ゲオルギューは、50代後半になって以前のような声力はない。第1幕は音の外れや歌詞のまちがいも散見されたが、それでも大歌手たるもの、伊達に大歌手ではないのだと痛感した。声に叙情的な若さをあたえて無垢(むく)なミミになったが、それだけではない。たとえば、第1幕でカギがないのに気づいてロドルフォの部屋に戻った際の、戸惑いの奥に感じられる、もしかしたらこの男性と……という打算交じりの感情。それが自然に声に乗るのは、ゲオルギューくらい経験があってこそ、だろう。
グリゴーロは高いド(C)に自信がもてなかったようで、第1幕のアリア「冷たい手を」の前から半音下げて歌い、ミミとの愛の二重唱までそれが続いた。プッチーニがこだわった調性に手を加えることに私は賛成しない。しかし、グリゴーロのオーラの前には、音を下げるのも小さなことに思えてしまう。また、グリゴーロのおかげでゲオルギューは助けられていた。音の高さもそうだが、旋律をあまり早く歌えない彼女は、グリゴーロが旋律を引き伸ばすのに合わせることで、自然な呼吸を維持できていた。これはグリゴーロの配慮だったのかもしれない。
マルチェッロ役のフランチェスコ・ヴルタッジョも逸材だ。充実した声による端正な表現で、実直な青年を見事に歌った。ムゼッタ役のジェッシカ・ヌッチオも声に制御が行き、そこに小悪魔的な表情を乗せる。しかし、2人とも枠からはみ出ないから、グリゴーロとゲオルギューのスター性がいっそう引き立てられたともいえる。
マリオ・ポンティッジャの読み替えがない正統的な演出のもと、充実の歌手陣に支えられて主役2人が輝いた。多少無軌道なその輝きをしっかり支えつつ、音楽を引き締めてドラマを深掘りする指揮者がいた。イタリアの輝きとともにそれを味わうのは、このうえなく幸福だった。
最後に付記しておきたい。アクトシティ浜松(6月21日)とびわ湖ホール(同22日)でもマッシモ劇場の「ラ・ボエーム」を鑑賞したが、この両日、ロドルフォ役に予定されていたイヴァン・マグリが喉の不調で降板し、急きょ、20日の晩に打診された笛田博昭が歌った。リハーサルもないぶつけ本番だったが、イタリアらしい発声と歌唱スタイルでイタリア人キャストに自然に溶け込んだ。この2日間だけミミを歌ったフランチェスカ・マンゾとの相性もよく、大きな声援を浴びた。
公演データ
6月15日(木)18:30、17日(土)15:00 東京文化会館大ホール
演出:マリオ・ポンティッジャ
指揮:フランチェスコ・イヴァン・チャンパ
ミミ:アンジェラ・ゲオルギュー
ロドルフォ:ヴィットリオ・グリゴーロ
マルチェッロ:フランチェスコ・ヴルタッジョ
ムゼッタ:ジェッシカ・ヌッチオ、ほか
管弦楽・合唱:パレルモ・マッシモ劇場管弦楽団・合唱団
プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」(イタリア語上演、日本語字幕付き)
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。