春のワーグナー競演(下)~東京・春・音楽祭「トリスタンとイゾルデ」/「ニーベルングの指環」

東京春祭「トリスタンとイゾルデ」より (C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024
東京春祭「トリスタンとイゾルデ」より (C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024

この春相次いで開催されたワーグナー作品を取り上げた大型公演の振り返り特集の後編は東京・春・音楽祭のワーグナー・シリーズ第15弾「トリスタンとイゾルデ」(演奏会形式上演、取材=3月30日、東京文化会館大ホール)と同音楽祭20周年を記念した「ニーベルングの指環」ガラ・コンサート(4月7日、同)。演奏はいずれもマレク・ヤノフスキ指揮、NHK交響楽団。(宮嶋 極)

 

【東京春祭ワーグナー・シリーズ「トリスタンとイゾルデ」】

東京・春・音楽祭の中心企画のひとつである〝ワーグナー・シリーズ〟の第15弾となる今年はマレク・ヤノフスキ指揮、NHK交響楽団による「トリスタンとイゾルデ」が取り上げられた。初日の3月27日の公演について、当サイトに池田卓夫氏による速リポをアップしているので、まずはそちらをご一読いただきたい。

東京・春・音楽祭2024東京春祭ワーグナー・シリーズvol.15「トリスタンとイゾルデ」 | CLASSICNAVI

本稿では30日の公演を取材した筆者が別の角度から報告したい。同時期に再演された新国立劇場「トリスタン…」との競演については当サイトでも何度か触れてきたが、観どころ満載のフルステージの新国に対して、演奏会形式の東京春祭が視覚面で面白みに欠けたかというとそんなことはない。何しろ普段はオケ・ピットの中で演奏しているオケが各場面でいかに演奏しているかをつぶさに観察できたからだ。

管弦楽の音楽的要素をつぶさに楽しめるのも演奏会形式の魅力 (C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024
管弦楽の音楽的要素をつぶさに楽しめるのも演奏会形式の魅力 (C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024

例えば第3幕、イゾルデを待ち焦がれる、ひん死のトリスタンのもとに彼女を乗せた船が見えたことを知らせるラッパの響き。これはホルツ(木製)・トランペットという特殊楽器で演奏されるのだが、フルステージ上演では舞台裏で吹き鳴らされるため、ワーグナーを重点的に取材してきた筆者も実際に演奏する姿を生で見たのは初めてだった。N響首席トランペット奏者の菊本和昭による見事な演奏と相まって、間近で聴くとこうしたサウンドなのかと新鮮な驚きを覚えた。ワーグナーは当初、この箇所をコールアングレにオーボエとクラリネットを重ねて演奏することを検討したそうだが、思うような効果が得られずアルペンホルンで演奏することまで提案したという。結局、それもうまくいかず、こうした特殊楽器が使われるようになった。
そしてホルツ…に続くオケのトゥッティ(全奏)の内声部でオーボエがホルツ…と同じ旋律を繰り返していたのも今さらながらの気付きとなった。後段で詳述するヤノフスキならではのバランスの築き方とそれに応えた第3幕から首席オーボエを務めた吉井瑞穂の太く輝かしいサウンドが可能にした妙技といえよう。さらに第3幕の終結直前、オーボエがDis(レ♯)音を伸ばして第1幕への前奏曲とは対照的に和音を解決に導く際の吉井の太く安定したサウンドも目を見張るものであった。また、第1・2幕で首席オーボエを担った𠮷村結実(N響首席)の透明感のある伸びやかな演奏もなかなか魅力的であった。この日はヨーロッパの歌劇場でよくやるように前半と後半で管楽器の一部を交代させていた。(昨年のマイスタージンガーでも同様)

普段目にすることのないホルツ・トランペット (C)池上直哉/東京・春・音楽祭2024
普段目にすることのないホルツ・トランペット (C)池上直哉/東京・春・音楽祭2024

もうひとつ特筆しておきたいのが首席ティンパニの久保昌一である。明瞭な音程感、深みのある音色で曲想に寄り添った音量・音質のコントロールは、ヤノフスキが求める響きを作り出す上で大きな役割を果たしていた。日本のティンパニ奏者でワーグナー作品においてこうした音を出せるプレイヤーは彼のほかにはいないだろう。
全体を振り返るとヤノフスキのブレない信念とそれに的確に応えたN響のうまさが見事に融合した充実のステージであった。終演後の喝采は盛大でオケが退場してもその勢いは衰えることなく、ヤノフスキがステージに再登場し、聴衆の〝賛辞〟に応えていた。なお、歌手などについては池田氏の速リポをご覧いただきたい。

ビルギッテ・クリステンセン
スチュアート・スケルトン

スチュアート・スケルトン(右、トリスタン)とビルギッテ・クリステンセン(イゾルデ) (C)飯田耕治/東京・春・音楽祭2024

【「ニーベルングの指環」ガラ・コンサート】

東京・春・音楽祭の20周年を記念したガラ・コンサートは「ワーグナー・シリーズ」の〝顔〟ともいうべきヤノフスキ指揮、N響による「ニーベルングの指環(リング)」抜粋という形で開催された。
ヤノフスキは同シリーズにおいて2014年から「リング」4部作を1年1作ずつツィクルス上演したことに続き、「ローエングリン」(22年)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(23年)、そして今年の「トリスタン…」まで7作を指揮。この間、N響との信頼関係を深めて演奏は年を経るごとにブラッシュアップされ、今や〝春祭のワーグナー〟ともいうべきスタイルを確立した。
この日のガラではそれらの集大成ともいうべき充実の演奏を聴かせてくれた。全般にやや速めのテンポ設定でキビキビとした音楽運びは85歳というヤノフスキの年齢を感じさせない俊敏さ。各表現に一切の無駄がなく、質実剛健な組み立てによって作品の構造美が力強いタッチで描き出されていた。興味深いのは各パートのバランスのとり方である。N響の美点を最大限に引き出し弦楽器の重厚なサウンドを随所で活用。特に第2ヴァイオリン、ヴィオラはトレモロや刻みをしっかりと弾かせているようで、その結果、響き全体の密度が濃くなった印象。「ワルキューレ」第1幕、窮地に陥ったジークムント(ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー)が目に見えぬ父親に助けを求めて「ヴェールゼ‼」と絶叫する背後で奏でられる弦楽器のトレモロは凄まじいまでの迫力があった。
また、厚い響きの中に埋もれがちな内声部の木管に重要なライトモティーフがある場合は他パートの音量を調整して、しっかりと際立たせていた。こうしたことを丹念に積み重ねていくことで、ヤノフスキとN響ならではのワーグナー・サウンドが常に絶妙なバランスを保ちながら紡ぎ出されていた。

長年、東京春祭のワーグナー・シリーズに貢献してきたヤノフスキ (C)高嶋ちぐさ/東京・春・音楽祭2024
長年、東京春祭のワーグナー・シリーズに貢献してきたヤノフスキ (C)高嶋ちぐさ/東京・春・音楽祭2024

歌手陣もワーグナーに相応しい豊かな声を駆使した濃厚な表現で、抜粋の演奏会ながら作品の魅力を堪能させてくれた。ヴォルフシュタイナー(ジークムント&ジークフリート)とエレーナ・パンクラトヴァ(ジークリンデ&ブリュンヒルデ)は1人2役の活躍。パンクラトヴァの声質はジークリンデに適しており既に各地の劇場でも歌って好評価を得ているがブリュンヒルデとなると少し違うように最初は感じていた。ところが、「神々の黄昏」第3幕〝ブリュンヒルデの自己犠牲〟では役に没入し、最後は涙を流しての熱唱を披露。(オペラグラスで確認したが確かに落涙していた)心打たれるものがあった。

熱唱を披露したエレーナ・パンクラトヴァ(ジークリンデ&ブリュンヒルデ) (C)平舘平/東京・春・音楽祭2024
熱唱を披露したエレーナ・パンクラトヴァ(ジークリンデ&ブリュンヒルデ) (C)平舘平/東京・春・音楽祭2024

休憩を入れて約1時間45分、素晴らしい演奏だっただけに終演後の聴衆からは「もう少し聴きたかった」との声も聞こえてきた。しかし、「ワルキューレ」第3幕の前奏曲(ワルキューレの騎行)、「神々の黄昏」序幕の〝夜明け~ジークフリートのラインへの旅立ち〟、同第3幕から〝ジークフリートの葬送行進曲〟など「リング」抜粋演奏の定番ともいうべき名曲をあえて外していたことにもヤノフスキのこだわりが窺えた。「リング」の中には上記のような定番曲だけでなく素晴らしい音楽がいっぱいあることをヤノフスキは示したかったのかもしれない。

終演後、聴衆から喝采を浴びる出演者陣 (C)平舘平/東京・春・音楽祭2024
終演後、聴衆から喝采を浴びる出演者陣 (C)平舘平/東京・春・音楽祭2024

公演データ

【東京・春・音楽祭 東京春祭ワーグナー・シリーズvol.1
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(演奏会形式 全3幕字幕付き)】

3月30日(土)15:00 東京文化会館大ホール

指揮:マレク・ヤノフスキ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口 彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン

トリスタン:スチュアート・スケルトン
マルケ王:フランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ
イゾルデ:ビルギッテ・クリステンセン
クルヴェナール:マルクス・アイヒェ
メロート:甲斐 栄次郎
ブランゲーネ:ルクサンドラ・ドノーセ
牧童:大槻 孝志
舵取り:高橋 洋介
若い水夫の声:金山 京介
合唱:東京オペラシンガーズ
管弦楽:NHK交響楽団
ゲスト・コンサートマスター:ベンジャミン・ボウマン

 

【東京・春・音楽祭 20回記念 ワーグナー「ニーベルングの指環」ガラ・コンサート】

4月7日(日)15:00 東京文化会館大ホール

指揮:マレク・ヤノフスキ
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン

「ラインの黄金」より第4場〝城へと歩む橋は…~神々のヴァルハル城への入城〟
ヴォータン:マルクス・アイヒェ
フロー:岸浪 愛学
ローゲ:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー
フリッカ:杉山 由紀
ヴォークリンデ:冨平 安希子
ヴェルグンデ:秋本 悠希
フロースヒルデ:金子 美香

「ワルキューレ」第1幕第3場〝父は誓った 俺がひと振りの剣を見出すと…〟~第1幕フィナーレ
ジークムント:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー
ジークリンデ:エレーナ・パンクラトヴァ

「ジークフリート」より第2幕
第2場〝あいつが父親でないとはうれしくてたまらない〟-森のささやき
第3場〝親切な小鳥よ教えてくれ…〟~第2幕フィナーレ
ジークフリート:ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー
森の小鳥:中畑 有美子

「神々の黄昏」第3幕第3場 〝ブリュンヒルデの自己犠牲〟
ブリュンヒルデ:エレーナ・パンクラトヴァ

管弦楽:NHK交響楽団
ゲスト・コンサートマスター:ヴァルフガング・ヘントリヒ

宮嶋 極
宮嶋 極

みやじま・きわみ

放送番組・映像制作会社である毎日映画社に勤務する傍ら音楽ジャーナリストとしても活動。オーケストラ、ドイツ・オペラの分野を重点に取材を展開。中でもワーグナー作品上演の総本山といわれるドイツ・バイロイト音楽祭には2000年代以降、ほぼ毎年訪れるなどして公演のみならずバックステージの情報収集にも力を入れている。

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