小澤征爾のオペラ指揮デビューは1969年ザルツブルク音楽祭の「コジ・ファン・トゥッテ」(モーツァルト)、34歳になる年だった。2002年にボストン交響楽団を去り、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任することが内定したのは2000年。小澤はオペラ指揮者としての自身の〝遅咲き〟も踏まえ「日本では若い音楽家がオペラを弾いて勉強する機会が少ないと気づき、教えたいと思うようになった」といい、小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトを立ち上げた。記念すべき第20回が2024年2月6日の逝去後初の公演に当たり、「世界のオザワ」のオペラの原点、「コジ」に戻ったのは感慨深い。
「恋人たちの学校」そのものの感触
オペラの幕開けに先立ち、小澤征爾音楽塾オーケストラの弦楽器群と豊嶋泰嗣(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)らコーチ陣が小澤の死を悼み、モーツァルトのディヴェルティメントK.136第2楽章を献奏した。コーチがピットを去ると、入れ替わりに2022年6月から音楽塾首席指揮者を務めるディエゴ・マテウスが現れ、「コジ」の序曲が始まった。
「コジ」はイタリアの台本作家、ロレンツォ・ダ・ポンテとモーツァルトの共同作業(ダ・ポンテ三部作)の掉尾(ちょうび)を飾る第3作、1790年1月26日にウィーンのブルク劇場で初演した。正式な題名は「コジ・ファン・トゥッテ(女は皆、こうしたもの)、もしくは恋人たちの学校」、台本の形式は前作「ドン・ジョヴァンニ」と同じく「ブッファ(喜歌劇)」ではなく「ドラマ・ジョコーソ(おどけたドラマ)」と規定された。貴族の姉妹とそれぞれの恋人の愛の真偽を狡猾(こうかつ)な哲学者が試し、世事に長(た)けた女中が狂言回しを演じる。あまりに安直なパートナーの入れ替え劇という題材が「不適切」として、欧州カトリック諸国での上演頻度は長年「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」に劣後してきたが、ダイバーシティが前提の現在は「愛の革命を宣言した画期的作品」と評価が一変している。
音楽塾のコンセプトに、「学校」はふさわしいキーワードだ。マテウスの指揮は丁寧きわまりなく、若い奏者たちのアンサンブルを細やかに整え、危なげのないテンポで美しい響きを引き出していく。ピリオド(作曲当時の)奏法を特に強調しなくとも、ヴィブラートのコントロールやアーティキュレーション、フレージングの歯切れの良さなどでは現在のモーツァルト再現のデフォルトを満たしている。半面、余りに慎重な運びが音楽の緊張感を弱め、どこを取っても同じように聴こえること、ひとつのナンバーから次のナンバーへ移行する箇所に長過ぎる間が生まれることは残念だった。教育の成果と上演の質とのバランスをどう保つかは、音楽塾オペラの今後を考える上でもまだ、開拓途上の課題に思えた。
キャストも「先生」と「生徒」、見事に二分された。フィオルディリージのサマンサ・クラーク(ソプラノ)はオーストラリア系英国人、ドラベッラのリハブ・シャイエブ(メゾ・ソプラノ)はチュニジア系カナダ人、フェランドのピエトロ・アダイーニ(テノール)とグリエルモのアレッシオ・アルドゥイーニ(バリトン)はともにイタリア人。全員が20〜30代の若手で声はバンバン出るが、歌は味わいに不足する。これに対しデスピーナのバルバラ・フルットリはイタリア屈指のリリコ・スピント(叙情性と強靭『きょうじん』さを兼ね備えた声)のソプラノ、ドン・アルフォンソのロッド・ギルフリーは古典から現代まで幅広い役をこなす米国トップクラスのバリトンと、キャリアと力量に大きな隔たりがある。
若い4人のレチタティーヴォ(通奏低音に乗せた会話の部分)が懸命さを克服できていないのに対し、フリットリとギルフリーのそれは会話劇の面白さをふんだんに発揮する。自分が歌っていない場面での何気ない仕草、目つき、立ち位置……いずれにおいても長年の経験が滲(にじ)み出る。声の無駄遣いもしない。デイヴィッド・ニース演出が変わったことを何もしない、教科書的なものなので、稽古場のストレスは極端に大きくはないだろう。代わりにフリットリ、ギルフリーとリハーサルを重ね、一緒の舞台に立つことで若手が吸収できたノウハウが貴重だったといえる。
ただ厳しいことを言えば、フリットリもギルフリーも若い頃から抜きん出た存在感を放っていた。私は1980年代の終わり、西ドイツ時代のフランクフルト歌劇場専属だったギルフリーのグリエルモを観ているが、今も記憶に残る素晴らしい美声と新鮮な演技だった。芸術家には早熟の才もいれば、遅咲きの花もある。小澤征爾音楽塾オペラが世界の大きな舞台へと飛躍するきっかけを与えたとすれば、マエストロの遺志も、さらなる未来につながっていくのではないだろうか。(3月23日 東京文化会館大ホール)
公演データ
小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXX モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」
全2幕 イタリア語上演/字幕付
3月23日(土)15:00 東京文化会館大ホール
音楽監督:小澤 征爾
指揮:ディエゴ・マテウス
演出:デイヴィッド・ニース
装置・衣裳:ロバート・パージオーラ
照明:高木正人
フィオルディリージ:サマンサ・クラーク
ドラベッラ:リハブ・シャイエブ
フェランド:ピエトロ・アダイーニ
グリエルモ:アレッシオ・アルドゥイーニ
デスピーナ:バルバラ・フリットリ
ドン・アルフォンソ:ロッド・ギルフリー
管弦楽:小澤征爾音楽塾オーケストラ
合唱:小澤征爾音楽塾合唱団
いけだ・たくお
2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。