イタリアは解釈、姿勢も、質も向上著しい
常軌を逸した円安が続き、海外演奏家の招聘(しょうへい)費用が激増するなど音楽業界も苦境を強いられている。高い旅費のせいで、欧米で音楽鑑賞をする日本人もコロナ前にくらべて減った。しかし、せっかくコロナ禍が収束した以上、本場で聴かねばもったいない。2023年はイタリアへせっせと通った。
驚かされたのは解釈、演奏の姿勢、演奏の質という3方向で、著しい向上が見られたことだった。渡航が困難だった2020年代の最初の3年間、国内に閉じこもっていた自分が、いかに浦島太郎の状態であったか知らされたと言い換えてもいい。
いくつか例を挙げよう。パレルモ・マッシモ劇場のベッリーニ「ノルマ」は、32歳の指揮者ロレンツォ・パッセリーニが、批評校訂版を採用してノーカットで上演。カバレッタや重唱の繰り返しでは、必ず歌手にヴァリエーションを歌わせた。ミラノ・スカラ座でも音楽監督のリッカルド・シャイーが、ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」で批評校訂版を使った。
ヴェルディの演奏では、従来はカバレッタ等(など)の繰り返しは当然のようにカットされたが、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場ではリッカルド・フリッツァが「エルナーニ」で、ナポリのサン・カルロ劇場ではマルコ・アルミリアートが「マクベス」で、慣習的なカットをやめてヴェルディの指示通りに演奏した。また、二人とも歌手たちに、ヴェルディが書いた発想記号に忠実な歌唱を求めていた。
オペラが望ましい方向に進んでいる——。その好感触を大きく拡大してくれたのが、スカラ座の2023/24シーズンの開幕公演、ヴェルディ「ドン・カルロ」だった(12月10日、13日に鑑賞)。
歌手はもちろんすべてが高貴で表情に富んだ「ドン・カルロ」
リッカルド・シャイーには申しわけないが、ヴェルディにおいてこれほど理想的な指揮者とは思っていなかった。私自身がヴェルディの音楽に、もっとスクウェアな様式を求めていたからかもしれない。シャイーが造形する音楽はスクウェアと呼ぶにしては伸縮し、起伏に富んでいる。それが人物の感情や生じた状況に適合し、ドラマを生々しく掘り下げるのに高貴なのである。
その高貴さはヴェルディの音楽に内在しており、ヴェルディは16世紀のスペイン宮廷を音で描写しているのだと得心させられた。音楽の貴族的な佇(たたず)まいは、ルイス・パルカルの演出との相性もきわめてよかった。
黒と白を基調に要所に金色がもちいられ、衣装も装置も一定程度の現代化と抽象化がはかられながら、16世紀スペインから外れていない。人物の動きはいずれも貴族的で、どの場面を切り取っても絵になるように計算されている。それが音楽の品位を支え、音楽は舞台の美しさを増幅させていた。このマッチングに直面して強く感じたのは、「ドン・カルロ」というオペラは時代や状況の安易な読み替えを拒絶しているということだった。
また、歌手が圧巻だったが、彼らが「ドン・カルロ」では聴いたことがないほど、ピアニッシモやソットヴォーチェを多用して、細やかに歌っていたことが強い印象をあたえた。ヴェルディの指示通りに歌うようにシャイーが指導したのだと思うが、いずれの歌手もそれを高水準でこなした。
ミケーレ・ペルトゥージは陰影に富んだ高貴な表現で、強さも弱さも複雑に滲(にじ)ませる空前のフィリッポ2世だった。表題役のフランチェスコ・メーリに、この役は最大の当たり役の一つだろう。むせび泣くような情熱的表現がカルロそのものだった。ルカ・サルシはロドリーゴにイメージされる朗々たる美声ではないが、細やかに掘り下げた歌唱で、むしろこれこそロドリーゴだと納得させる。エリザベッタのアンナ・ネトレプコは強く輝かしい声と繊細なピアニッシモとの同居が驚異的だ。エリーナ・ガランチャのエボリ公女は軽やかさを失わずに力強く、すみずみまで磨かれた表現に精神が宿っていた。
オールスターキャストを集め、なおかつ彼らに妥協のない表現を求める。スカラ座がこれほど躍動しているなら、イタリア・オペラの未来は暗くない。
(香原斗志)
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。