第34回 群馬交響楽団へのオマージュ ~前編~

移動音楽教室の様子。写真から、演奏や楽器紹介を織り交ぜた内容がうかがい知れる
移動音楽教室の様子。写真から、演奏や楽器紹介を織り交ぜた内容がうかがい知れる

やっぱり発端は「ここに泉あり」

群馬交響楽団の創設期のことを描いた映画「ここに泉あり」のことについては、たいていのクラシック・ファンはよく知っているだろう。私もあの映画を見て、すこぶる感動した一人だ。

 

映画のラストシーンは、東京の交響楽団との合同演奏で、山田耕筰氏の指揮でベートーヴェンの「第9」をやるというエピソードで結ばれるが、創設者の丸山勝廣氏が書いた「愛のシンフォニー」(講談社刊)を読むと、あれはあくまでフィクションであり、群響が初めて「第9」を演奏したのは映画製作から少しあと、渡邉暁雄氏の指揮で、それも単独で行った、ということになっている。まあそれはともかく、私が心を打たれたのはその場面よりも、映画の初めの方で、加東大介氏らが扮(ふん)するわずかな数の楽員たちが、大きな楽器を担いで農道を延々と歩き、山村の学校で音楽教室を行うシーンの方であった。生徒が音楽そっちのけで騒いでいるにもかかわらず、楽員が黙々と大太鼓を叩いて演奏する姿は、崇高なものにさえ見えたのである。実際に、1947年5月から始められた「移動音楽教室」は、今に至るまで群響の重要な活動の柱となっていて、これまでに650万人近くの数にのぼる生徒たちがその演奏に接しているとされている。

山田一雄が芸術監督を務めていた1971年の公演より。指揮は服部良一
山田一雄が芸術監督を務めていた1971年の公演より。指揮は服部良一

群響の演奏会を録音に行ったとき

私が群響の演奏を初めて聴いたのがいつだったかは、詳しい記憶がない。たしか1960年代の半ばに、竣工(しゅんこう)して間もない群馬音楽センターでリハーサルを聴いたのがその最初ではなかったかという気がする。

 

だが、1971年になって、当時のエフエム東京のライブ番組で放送するために、初めて同ホールへ演奏会を録音しに行った時のことは、あまりにあれこれの騒動が絡んでいたので、記憶も鮮明だ。山田一雄氏(初代ヤマカズだ)が指揮、ピアノの宮沢明子さんがソリストで出演していた。

 

騒動の最大の原因は、演奏会のさなかに高崎を襲って来た、その夏一番の凄さだったという大雷雨である。われわれも初めはそれと気づかず、誰かが本番中に舞台裏で大太鼓を叩く練習でもしているのかと思い、スタッフの一人を抗議に行かせたほどだが、間もなく彼が戻って来て言うには、「大変です。カミナリです」。なるほど休憩時間にロビーに出てみれば、大ガラスいっぱいに荒れ狂っているのは、耳を聾(ろう)する雷鳴と、目もくらむような稲妻だ。これでは雷の音がマイクに入るのも当然であろう。やがて第2部の「幻想交響曲」の演奏も開始されたが、第1楽章でオーケストラが昂揚(こうよう)してハタと総休止になった時に、静寂となるはずの休止符の個所で大太鼓のトレモロのような音がかすかに鳴り続けているとは、何とも奇怪千万な「幻想交響曲」であった。

後編へ続く

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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