第27回 あの頃のカラヤン Part2

ルリン・フィルを指揮するカラヤン=東京NHKホールで、1973年10月25日撮影
ルリン・フィルを指揮するカラヤン=東京NHKホールで、1973年10月25日撮影

大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンがピアノを弾く光景を、私は一度しか見たことがない。そもそも指揮者はふだんからピアノを上手に弾くものだし、特に指揮とピアノの二刀流を売りものにしている指揮者でなくても別に珍しいことではないのだから、カラヤンだって弾くだろう。だが、彼がオーケストラと一緒に、大勢の人々の前でベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」を弾くなどという出来事を目にする機会は、まずないだろう。

 

 時は1977年11月、所は東京の普門館。カラヤンとベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲ツィクルスを、私たちがFM東京の放送番組のために収録していた時のことだ。このツィクルスでは、9曲の交響曲の他に、アレクシス・ワイセンベルクがピアノ協奏曲の3番と5番「皇帝」を演奏することになっていた。本番当日の朝にリハーサルが行われ、私たちもそれを音響テストとして収録していたのだが、時間が来てカラヤンとオーケストラが舞台に揃っても、どうしたことか、ワイセンベルクがさっぱり姿を現わさない。もちろんカラヤンは、その事情は承知していたのだろう。それではというわけで、とりあえずは彼抜きで「皇帝」のリハーサルを始めた。冒頭の豪壮な和音群のところはピアノ・ソロなしで行なわれ、オーケストラのみの第1主題、第2主題が過ぎ、いよいよピアノが入って来る個所まで演奏は進んだが、それでもワイセンベルクはまだ出て来ない。

 

 すると、手持無沙汰になったカラヤンがおもむろにピアノの前に腰を下ろしたかと思うと、なんと自分でピアノのパートを弾き出したのである。とはいえ、あのヴィルトゥオーゾ的な大コンチェルトだ。さすがにカラヤンの手には負えぬと見え、演奏はもう、つっかえ、つっかえ。業を煮やしたか、コンサートマスターをはじめとするヴァイオリン奏者の何人かが、「こういうメロディだ」とばかり、暗譜でピアノのパートを弾き始めてしまう。カラヤンが苦笑しつつ、必死にあとを追いかける。つっかえながらの演奏でも、和声はちゃんと弾いているし、しかも音を外したところは一切ない、というのはさすがであった。とにかく、カラヤンはなんとか懸命に上行音階を弾き終り、フォルテを決めると、ベルリン・フィルが待ってましたとばかり指揮なしで、鮮やかな全合奏でそれを受けたのだった。客席にいた見学者や立ち合いの集団からは大拍手が起こったが、カラヤンはまた苦笑して、客席に向かって「よしなよ」とばかり、軽く手を振る。

 

 するとその瞬間、舞台袖から飛鳥のようにワイセンベルクが飛び出して来た。彼はあっという間にピアノの横を走り過ぎると指揮台に飛び上り、オケに向かって「さあオレの指揮で」と大きく手を拡げた。だが場内からの爆笑でそれと気づいたカラヤンが「ダメだよそんなの」とばかり、これも飛び上がってワイセンベルクをうしろから捉まえ、大笑いのもみ合いのあげく、やっと本来のリハーサル開始にこぎつけたのであった。この時の録音は私の手許には残っているのだが、やはりこればかりは、FM東京で放送するわけにも、その後発売されたライヴCDに入れるわけにもいかなかった。

 

 私自身は結局――前述の収録時を含め、何度かその機会があったにもかかわらず――あの大カラヤンと個人的な面識を得られぬままで終ってしまったのは残念である。それでも至近距離で正面から顔を合わせるという幸運(?)に恵まれたのは、1988年8月27日、ザルツブルク祝祭での、カラヤンがベルリン・フィルを指揮して演奏したブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会のあとだった。この頃カラヤンは、もう舞台で独りでは歩けず、支えられながら袖と指揮台を往復するという痛ましい姿ではあったが、精神力でオーケストラを率いるさまは、それはもう壮烈を極めていた。

 

 終演後に私は楽屋口に回り、当時同楽団のヴィオラ奏者だった土屋邦雄さんに会おうと、勢いよくドアを開けて飛び込んだ(当時はセキュリティ問題など未だなかった)。ところが、そこで車椅子に乗って出て来るカラヤンと鉢合わせしてしまったのである。マエストロは一瞬「なんだお前は?」という顔をしたが、こちらが挨拶すると、軽く笑ってくれた(という具合に、私はミーハー状態だったのである)。その時の彼の碧い目が素晴らしく綺麗だったことが、今でも私の目の底に焼き付いている。その年の夏が、カラヤンのザルツブルク祝祭出演の最後になった。

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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