—11― 空腹は最高の調味料

藤原歌劇団公演「タンホイザー」=1947年 帝国劇場 写真提供:公益財団法人日本オペラ振興会
藤原歌劇団公演「タンホイザー」=1947年 帝国劇場 写真提供:公益財団法人日本オペラ振興会

わが国のオペラ上演史上、長期興行の大入り満員という極度に稀な例としては、なんといってもあの1947年(昭和22年)夏の藤原義江歌劇團(現・藤原歌劇団)のワーグナーの「タンホイザー」の舞台日本初演が挙げられよう。

場所は帝国劇場、「7月12日から8月3日までの23日間に計25回の公演」(増井啓二著「日本オペラ史」昭和音楽大学オペラ研究所編による)が行われ、うち昼夜計2回のダブルビル公演も2日間あったというから、信じられぬような話である。そもそも、「タンホイザー」を昼夜2回上演するなどという芸当は、とても人間業とは思えない。昔のことだから、カットも多かったのではないかとは思うが。

因みにこの時の顔ぶれは、タンホイザーを藤原義江と木下保、エリザベートを笹田和子と三宅春惠、ヴェーヌスを砂原美知子と瀧田菊江の各ダブルキャストその他。マンフレッド・グルリット指揮の東寶交響樂團(現・東京交響楽団)、石井漠舞踊團。演出は近衛秀麿(!)、演技指導が青山圭男、日本語訳上演。チケットは80円と40円だったという。

ただしこの上演日程と上演回数には、資料によりさまざまな食い違いがある。同じ昭和音大の大規模で詳細な「公演記録」(インターネット閲覧可能)には、「7月12日から30日まで」の日程で連日・休みなし、として、「計21回分」のダブルキャストの分担表が詳細に載っている。いっぽう、「音樂之友」(現・音楽の友)昭和22年9月號・46頁の「がくだん抄」には「7月12日から8月3日迄、マチネー2回を加えて23回」とある。

——というわけで、これは結局、当時の上演プログラムでも調べなければ正確なところは判らないだろう。残念ながら、今の私にはその原資料に当たる時間がなかった。

いずれにせよこの上演は、「連日補助椅子はもちろん、客席の後方に立った人垣で身動きもならない」盛況だったという(「日本オペラ史」)。1947年7月といえば、あの大戦争が日本の降伏で終わったわずか2年後のこと。東京はまだ大半が焼野原だったはずである。その中で、人々がオペラに……しかもワーグナーのオペラに殺到していた、とは、何とも感動的な話だ。あの焼け跡の中でさえ、これほどクラシック音楽に飢えていた人がいた、というなによりの証拠であろう。

当時の新聞の批評には、「……あらゆる点で冒険に取り組んだのであるが、その現実的な限界の中では成功である」とあったそうだ(巧い表現だ!)。また別の新聞評では、「舞台の狭さが大きな原因となってこの曲の持つ古典的重厚さは求むべくもないが、ミニチュアとしてその努力は買っていい」と、実に温かい評が載ったという(いずれも「日本オペラ史」から)。飢餓状態の中にあっては、すべてが干天(かんてん)に慈雨(じう)、貴重なものとして受け取られるという好例であり、また廃墟の地に芽生えた小さな草を大切に育てて行こう、という精神の顕れである。飽食時代の評とは、そこが違う。

大谷洌子渡欧記念「お蝶夫人」=1956年1月10日 日比谷公会堂、プログラム誌より
大谷洌子渡欧記念「お蝶夫人」=1956年1月10日 日比谷公会堂、プログラム誌より

「客席の後方に立った人垣——」などという光景は、法律が厳しくなった今では想像もできないものだが、私も昭和20年代の中ごろ、親に連れられて行った旧(ふる)い「芝のスポーツセンター」(たしか増上寺の向かい側辺りにあった)で、真ん中のリンクの上でオーケストラが何かのシンフォニーを演奏しており、1万人近い人々が立ったままじっとそれに耳を傾けていた光景を朧気ながら記憶している。また1956年1月10日、日比谷公会堂で「大谷洌子渡欧記念」として「お蝶夫人」が上演された際、1階席両側の通路にまでぎっしりと人が立ち、凄まじい集中力をもって舞台を視、演奏を聴いていた模様をはっきりと記憶している(実は私もその立ち見客のひとりだった)。

それらの光景は、今思い出しても、物凄い迫力でさえあった。クラシック音楽も、そしてオペラも、当時はそんなにも熱い存在なのだった。

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東条 碩夫

とうじょう・ひろお

早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。

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