今年は太平洋戦争終結80年ということで、5月の新聞には1945年(昭和20年)5月23日深夜と25日深夜の、米軍によるいわゆる「東京最後の大空襲」の悲惨な記事がいくつか載っていた。それは前年11月から半年にわたり連日連夜のように行われた空襲の、その最後となった「山の手方面大空襲」のことである。これで東京は事実上壊滅し、そのあとの空襲は東京でなく、専ら横浜や中部・関西などの地方都市に移るのだが——。
その山の手大空襲の際は、私も目黒の高台にあった自宅の庭の防空壕にいたので、おぼろげながら記憶している。東京湾方面から襲って来た米空軍の超大型爆撃機B29の大編隊(米軍発表では500機)の空を圧する轟音と、それらが投下する焼夷弾で下目黒方面の街が破壊炎上して行く物凄い響きは、今も忘れられない。25日の深夜には、私の家も焼けた。近隣も猛火に包まれた。近所の人々は防空頭巾の上から水をかぶり、隣接する雅叙園の林の中に逃げたという。防空壕の中で一夜を明かしたのは私の一家だけだったらしい。
その5月24日と25日、未だ焼けずに建っていた日比谷公会堂で、当時の日本交響楽団(現・NHK交響楽団)が、尾高尚忠の指揮で定期公演を開いていたというのは驚きである。いや、日響は、3月10日未明のいわゆる「下町方面大空襲」の直後、3月14、16、17日にさえ、山田和男(一雄)の指揮で定期公演を行なっていたのだという。よくまあ楽員が集まり、聴衆も集ったものだと感銘を受けずにはいられない。客席には、どのくらいの聴衆がいたのだろうか? もちろん、この定期公演の開催には、日本放送協会(NHK)の海外向け放送も絡んでおり、オーケストラの演奏を生放送で海外に聴かせることは、日本は屈服するどころか、びくともしていないのだぞ、ということを「敵軍」に誇示する意味もあったからだが——。
そして6月の13、14日には、尾高尚忠の指揮で、ベートーヴェンの「第9」を演奏したという。それが戦争中における日響の最後の定期演奏会となった。この頃には東京への空襲はほぼ終了していたけれども、戦況すでに敗色濃厚となり、本土決戦の噂も広がりつつあった時期でもあった。迫り来る破局を予感しつつ、演奏する側も聴く側も、いったいどんな気持で「第9」を受容していたのだろうか?
こうした極限状態の中でもなおクラシック音楽を聴きたい、という人は当時少なくなかったという話だが、私はこれに関して、故・志鳥栄八郎氏が書いていたエピソードを思い出さずにはいられない。
それは氏の知人で、熊本に住んでいたT氏という人から聞いた話だそうだが、そのT氏のもとへ、昭和20年4月5日、近く特攻隊員として出撃するという若い陸軍少尉が訪れた。そして生涯の思い出にと、トスカニーニ指揮のベートーヴェンの「第5交響曲」と、ヒュッシュが歌ったシューベルトの「冬の旅」のレコードを聴かせてもらい、あつく礼を言って帰って行ったという。
その2日後、1機の飛行機がT氏宅の上空へ飛んで来て、何度も旋回しては、別れの翼を振っていた。少尉の飛行機だとすぐわかった。T氏宅の人たちは物干し台に上がり、腕もちぎれんばかりに日の丸の旗を振って見送ったという。そしてその2日後、彼の乗った神風特攻隊の戦闘機は沖縄で米軍の軍艦に体当たりし、彼は若い命を散らして行った……。
なんとも悲しい話だ。その時、彼がどんな気持でベートーヴェンとシューベルトの音楽を聴いていたのか。それを考えると涙を抑えきれなくなるし、またそれを思うと今の私も、音楽をあだやおろそかには聴いてはいられない、とさえ思うのである……。
(参考文献)
原田良次著「日本大空襲」(下)(中公新書刊)
佐野之彦著「N響80年全記録」(文芸春秋刊)
志鳥栄八郎著「志鳥栄八郎の音楽千夜一夜」(音楽之友社刊)

とうじょう・ひろお
早稲田大学卒。1963年FM東海(のちのFM東京)に入社、「TDKオリジナル・コンサート」「新日フィル・コンサート」など同社のクラシック番組の制作を手掛ける。1975年度文化庁芸術祭ラジオ音楽部門大賞受賞番組(武満徹作曲「カトレーン」)制作。現在はフリーの評論家として新聞・雑誌等に寄稿している。著書・共著に「朝比奈隆ベートーヴェンの交響曲を語る」(中公新書)、「伝説のクラシック・ライヴ」(TOKYO FM出版)他。ブログ「東条碩夫のコンサート日記」 公開中。