1月15日に東京都交響楽団の演奏会でウォルトンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏:金川真弓、指揮:レナード・スラットキン)を聴き、1月30日にはNHK交響楽団の演奏会でバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番(ヴァイオリン独奏:郷古廉、指揮:トゥガン・ソヒエフ)を聴いた。この2つのヴァイオリン協奏曲はともに1939年に発表されている。つまり、バルトークの協奏曲は、1939年3月23日、アムステルダムで、ゾルターン・セーケイの独奏で、ウォルトンの協奏曲は、1939年12月7日、クリーヴランドで、ヤシャ・ハイフェッツの独奏で、初演されたのであった。
実は、この第二次世界大戦が始まった年の前後に、歴史に残るヴァイオリン協奏曲が次々と生み出されている。1935年12月にマドリードでプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番がロベール・ソエタンの独奏によって初演され、1936年4月に国際現代音楽協会(ISCM)のバルセロナ大会でその前年に亡くなったベルクのヴァイオリン協奏曲がルイス・クラスナーの独奏で初演されている。ベルクの協奏曲の初演を聴いたブリテンは、それに刺激を受け、自らもヴァイオリン協奏曲を書くことになる。また、1937年には、ベルリンの図書館で発見されたシューマンのヴァイオリン協奏曲がゲオルク・クーレンカンプの独奏で漸(ようや)く日の目を見ている。
1939年には、上述のように、バルトークの第2番とウォルトンの協奏曲が初演された。
1940年に非公開ではあるが、カーティス音楽院内でバーバーのヴァイオリン協奏曲が初演されている。そして、1940年3月に前述のブリテンのヴァイオリン協奏曲がニューヨークでアントニオ・ブローサ(1936年にISCMバルセロナ大会でブリテンと共演経験あり)の独奏で初演され、同じく3月にはヒンデミットのヴァイオリン協奏曲がアムステルダムで初演されている。同年11月にはモスクワでハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲がダヴィッド・オイストラフの独奏によって、同年12月には、フィラデルフィアでシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲が、ベルクの協奏曲と同じく、クラスナーの独奏によって初演されている(シェーンベルクの協奏曲は、2024年12月にアヴァ・バハリの独奏、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の演奏を聴いたばかりである)。
どうしてこの時期にこれだけのヴァイオリン協奏曲の創作が集中していたのだろうか。一つには、ハイフェッツ、オイストラフ、セーケイ、クラスナーら、優れたヴァイオリニストがいたということがあげられるだろう。ウォルトンの協奏曲はハイフェッツによって、バルトークの第2番はセーケイによって、委嘱されている。
そして、もう一つには、調性が崩壊し、無調性や十二音技法の音楽がトレンドとなっていた時代に、旋律を奏でる楽器としてのヴァイオリンが見直されていたからではないだろうか(もちろん、ベルクやシェーンベルクの協奏曲では十二音技法が用いられているが)。戦争に突入していく過酷な時代であったからこそ、ヴァイオリンに歌が求められていたに違いない。
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やまだ・はるお
音楽評論家。1964年、京都市生まれ。87年、慶応義塾大学経済学部卒業。90年から音楽に関する執筆を行っている。著書に、小澤征爾の評伝である「音楽の旅人」「トスカニーニ」「いまどきのクラシック音楽の愉しみ方」、編著書に「オペラガイド130選」「戦後のオペラ」「バロック・オペラ」などがある。