アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル2026 東京公演

バッハの背後に神を見るような……

アンドラーシュ・シフの2026年アジア・ツアーは3月13日の釜山を皮切りに韓国2都市、台北、中国4都市、日本6都市(全部で13都市)で19日間に17公演、72歳とは思えないハードな日程をこなした。プログラムは最近の定番、「シフ本人がステージ上でトークを交えながら発表」のスタイルだったが、最終日の4月1日、サントリーホールの東京公演だけは「70代になるまで待ち続けました」(公演プログラムに載った中村真人氏のインタビューより)という最新レパートリー、J.S.バッハ未完の大作「フーガの技法」を弾くことが予め発表されていた。

アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル2026の東京公演では、予め発表されていたJ.S.バッハ「フーガの技法」が披露された Photo by Tatsuya Shiraishi
アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル2026の東京公演では、予め発表されていたJ.S.バッハ「フーガの技法」が披露された Photo by Tatsuya Shiraishi

シフは楽譜を両手で大事そうに抱え、譜めくりの男性を従えて登場。ピアノ椅子に座るやいなや淡々と弾き始めた。楽器はスタインウェイのフルコンサート・グランド。「コントラプンクトゥスⅠ」の打鍵は深みのある音だが決して重くならず、リズムも軽やかでモダン(現代)ピアノによる18世紀音楽の再現を究めてきた名手らしいバランス感覚を感じさせた。時間の進行とともに強弱の振幅は大きくなって超絶技巧が現れ、ミステリアスな雰囲気も漂ってくる。興味深いのは「コントラプンクトゥス」が多少のペダリングを伴ったのに対し、「カノン」はノンペダルを通したことだ。

モダンピアノによる18世紀音楽の再現を究めてきたシフらしいバランス感覚を感じさせる演奏 Photo by Tatsuya Shiraishi
モダンピアノによる18世紀音楽の再現を究めてきたシフらしいバランス感覚を感じさせる演奏 Photo by Tatsuya Shiraishi

最後のパート。精緻な「3度の対位における10度のカノン」を最後に「カノン」の出番は終わり「コントラプンクトゥス」のXからXIVの5曲が続く場面で、シフはさらに深遠な世界へと足を踏み入れた。モダンピアノの性能を踏まえた音量の増減、デュナーミク(強弱法)を巧みに設計しながら、輝かしさの一方ではダークな色彩の深い憂いを描き分けていく。未完で終わる地点の演奏法には敢えて唐突さを強調する選択肢もあるが、シフは静けさの中に無限のニュアンスをこめ、深い余韻の世界に聴衆を導いた。70分間ノンストップの後、ノイズ皆無の真空のような沈黙がホールを支配した。

シフは静けさの中に無限のニュアンスをこめ、深い余韻の世界に聴衆を導く Photo by Tatsuya Shiraishi
シフは静けさの中に無限のニュアンスをこめ、深い余韻の世界に聴衆を導く Photo by Tatsuya Shiraishi

シフは中村氏とのインタビューの最後で「バッハは神だけが完璧であると考えていたと思います。〝私は小さな人間です。神への冒涜になるので、それ以上書き続けることはいたしません〟。これが私の解釈です」と、「フーガの技法」が未完で終わった理由を語っている。今夜も、バッハの楽譜の背後に存在する神の姿を見ていたに違いない。

究極の緊張の後には返礼のように、同じバッハでも多くの人々の耳に慣れ親しんできた名曲の数々がたっぷりと振る舞われた。面白かったのは「イタリア協奏曲」。1つの楽章を弾くと拍手、舞台袖に引き上げてはまた現れ、次の楽章を弾くという〝3回払い〟で全曲を完走した。最後はシフが「フーガの技法」の楽譜を高々と掲げ、お開きに。

(池田卓夫)

アンコールで演奏したバッハの名曲の数々は、本編を聴き届けた聴衆への返礼のようだった Photo by Tatsuya Shiraishi
アンコールで演奏したバッハの名曲の数々は、本編を聴き届けた聴衆への返礼のようだった Photo by Tatsuya Shiraishi

公演データ

アンドラーシュ・シフ  ピアノ・リサイタル2026

4月1日(水) 19:00サントリーホール 大ホール

プログラム
J.S.バッハ:フーガの技法

アンコール
J.S.バッハ
:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903
:ゴルトベルク変奏曲 BWV988から「アリア」
:平均律クラヴィーア曲集 第1巻から 第1番 前奏曲とフーガBWV846 ハ長調
:イタリア協奏曲 BWV971
(3つの楽章を1つずつ、合計3曲のアンコールとして演奏)

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池田 卓夫

いけだ・たくお

2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。

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