レオ・ヌッチ 最後の来日 ヴェルディ「椿姫」&「リゴレット」ハイライト

いまなお現役のどんな歌手も届かない圧巻の歌唱と迫真性

ホールを埋め尽くした聴衆がスタンディングオベーションで盛大な拍手を送り、ヌッチとソプラノのエンケレーダ・カマーニは何度も何度も呼び出された。これほど盛り上がった演奏会は、ここ何年かではほかに記憶がない。

レオ・ヌッチが再来日。圧巻の歌唱で聴衆を大いに沸かせた
レオ・ヌッチが再来日。圧巻の歌唱で聴衆を大いに沸かせた

前半はヴェルディ「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」の抜粋で、1曲目はカマーニが歌うヴィオレッタのアリア「不思議だわ」。いきなりこの難曲とは、歌手にとって酷だと思うが、冒頭から精密にコントロールされたピアニッシモと美しい倍音に唸らされた。ただ、高音域になると響きが金属的になって音が揺れたが、それは時間を追って解消されていった。

続いたのがジェルモンとの二重唱で、83歳になったヌッチの声はどうかと固唾(かたず)を飲んだが、第一声から力強く響いた。しっかりとしたフレージングで、しかもレガートは力強く、旋律が揺れることもない。カマーニの歌も演劇性が高く、いきなり迫真のドラマが展開した。8人で構成されるアンサンブル・ヴェルディの演奏も、2人の歌をよく支えた。

第一声から力強く響いたヌッチの声と演劇性が高いカマーニの歌で、いきなり迫真のドラマが展開した
第一声から力強く響いたヌッチの声と演劇性が高いカマーニの歌で、いきなり迫真のドラマが展開した

そしてヌッチの歌唱は、ジェルモンの狡猾(こうかつ)さも、実の娘への気持ちも、ヴィオレッタへの同情も、瑞々(みずみず)しくさえある声の深奥から滲(にじ)み出て、心に浸透してくる。

「プロヴァンスの海と陸」でも声の伸びは驚異的で、フォルテでは音圧が高い声がまったく無理なく送り出され、力強くホールを満たす。一般にこの年齢では、声が出ても息が続かない。息に乗せる発声が完璧で、そのうえ呼吸の訓練を怠らないから、年齢を超えてこの水準の歌が歌える。「この水準」とは、ほとんどの現役バリトンが到達できない水準である。

後半の「リゴレット」でヌッチはさらに水を得た魚のようだった。第1幕のモノローグでこの役の複雑な人間像を表出し、ジルダとの二重唱では、のちに悲劇を生み出すほど娘を溺愛する父親になりきる。このあたりではカマーニの声も温まって高音域も安定し、ドラマのリアリティーが増す。ちなみに、ヌッチ本人によれば、この演奏会は「コンサート」ではなく「演劇的な」表現の場だという。実際、2人は舞台上でかなり、しかも効果的に動いて、どの場面もオペラティックだった。

十八番のアリア「悪魔め、鬼め」は強い怒りも哀願も精神性を宿し、それを満たす声とフォームがあるので、歌唱の水準もドラマの迫真性も極まった感があった。ジルダとの二重唱では、さらに調子を上げたカマーニとの息もピタリと合い、「泣きなさい、娘よ」と歌うピアニッシモからフォルテまでコントロールが行き届いた。

その後、アンコールでふたたび「悪魔め、鬼め」を歌い(予定になかったものだ)、続いて披露した「アンドレア・シェニエ」の〝祖国を裏切る者〟は、堅固なフォームに温まった声が満ちて、ジェラールの複雑な感情が表出する声は、さらに伸びやかに響き渡り、圧巻だった。

ヌッチが年齢を感じさせない驚異の歌声を聴かせた
ヌッチが年齢を感じさせない驚異の歌声を聴かせた

その時点で開演から2時間半近く経っていたと思うが、終始心を揺さぶられ、あっという間であったことに驚いた。あまりに濃厚な時空で、銘打たれていたように「最後の来日」でないことを祈った。

(香原斗志)

公演データ

レオ・ヌッチ、最後の来日
ヴェルディ「椿姫」&「リゴレット」ハイライト

11月9日(日) 13:30サントリーホール 大ホール

バリトン:レオ・ヌッチ
ソプラノ:エンケレーダ・カマーニ
演奏:アンサンブル・ヴェルディ

プログラム
「椿姫」ハイライト
第1幕 ヴィオレッタのアリア「不思議だわ~きっとあの人なのね~花から花へ」(soprano)
第2幕 ヴィオレッタとジェルモンの二重唱「ヴァレリー嬢ですか?」(baritono, soprano)
第2幕  ジェルモンのアリア「プロヴァンスの海と陸」(baritono)
第3幕への間奏曲(instruments)
第3幕 ヴィオレッタのアリア「さようなら、過ぎ去った日々よ」(soprano)

「リゴレット」ハイライト
第1幕 リゴレットのモノローグ「俺たちは同類だ!」(baritono)
第1幕 リゴレットとジルダの二重唱「娘よ! おとうさん!」(baritono, soprano)
第1幕 ジルダのアリア「慕わしい人の名は」(soprano)
第2幕 リゴレットのアリア「悪魔め、鬼め」(baritono)
第2幕 リゴレットとジルダの二重唱「日曜ごとに教会に~娘よ、泣きなさい」(baritono, soprano)
第2幕  リゴレットとジルダの二重唱「復讐だ!」(baritono, soprano)

ソプラノ・アンコール
プッチーニ:オペラ「ジャンニ・スキッキ」より〝私のお父さん〟

バリトン・アンコール
ヴェルディ:オペラ「リゴレット」より〝悪魔め、鬼め〟
ジョルダーノ:オペラ「アンドレア・シェニエ」より〝祖国を裏切る者〟

バリトン&ソプラノ・アンコール
クルティス:忘れな草

Picture of 香原斗志
香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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