オペラの構造を視覚化したすぐれた演出のもと躍動した歌手たち
「最初が肝心」というが、オペラもそうだと実感した。赤い縁取りに収められ、念入りに造り込まれたガーター亭は、猥雑なのに品がよく、酒飲みで強欲だが貴族だというファルスタッフの二面性を映し出すとともに、ヴェルディの音楽とも一致する。そして、題名役の押川浩士がいい。幕が開くやいなや満足が得られると、あとは気持ちよく鑑賞できる。
押川はこのところ、ヴェルディの悲劇的な役で充実したレガートを聴かせるようになっていた。密度が高まった歌唱が持ち前の喜劇的な表現力と相まって、納得させられる。「ファルスタッフ」は多くの役で、それまでのヴェルディの作品と異なる逐語的な表現が求められる。なかでも題名役はそうだが、むろん簡単ではない。音楽の流れを崩さずに、言葉に沿ってニュアンスを千変万化させなければならない。そういう点が、ゲネプロで聴いた初日組の上江隼人もすぐれていたが、押川も負けてはいなかった。
もう一人のバリトンであるフォード役は、旧来のヴェルディの役に近い面もあるが、こちらは森口賢二がスタイリッシュに歌い上げ、イタリアらしい響きによる抑制が効いた表現は、押川との相性もよかった。
輝いていた歌手として、フェントンの清水徹太郎とナンネッタの米田七海を忘れるわけにはいかない。物語の結末を左右するこの若い男女の恋愛劇は、伏線として重要な役割を負っているが、求められる歌唱はほかの役のような逐語的なものではない。言葉よりもむしろ旋律で感情を伝える役なので、ベルカント・オペラ以来の伝統的な歌唱美が問われる。
それがドラマのなかで浮かないのは、左右対称になるように周到に組み上げられたこのオペラの構造による。各幕は第1場がファルスタッフの世界で、第2場がウィンザーの女房たちの世界という対称性もそうだし、1つの場のなかも同様だ。たとえば第1幕第2場。4人の女声、男性の五重唱、若いカップルの二重唱、4人の女声、若いカップルの二重唱、男性の五重唱、4人の女声、と並ぶ。7つの部分は真ん中の4人の女声をはさんで完全に左右対称である。このように構造が合理的だから、若い2人の歌唱だけが旋律重視でも周囲から浮かず、それどころかドラマに花を添える。「花」には美しさが必須だが、清水と米田の歌唱は、無理のない声により美しいレガートが表現された。
左右対称性は岩田達宗の演出でも表現された。冒頭で紹介した舞台は、半回転するとフォード邸やウィンザーの森に移り変わる。このオペラの構造をこうして視覚に訴えたのは卓見である。そのうえでイタリア古典演劇の伝統も踏まえた人物の闊達な動きが、時任康文が指揮する東京フィルの管弦楽とかみ合っていた。
(香原斗志)
公演データ
藤原歌劇団創立90周年記念公演 G.ヴェルディ作曲「ファルスタッフ」
オペラ全3幕 字幕付き原語(イタリア語)上演
2月2日(日)14:00東京文化会館 大ホール
総監督:折江 忠道
指揮:時任 康文
演出:岩田 達宗
ファルスタッフ:押川浩士
フォード:森口賢二
フェントン:清水徹太郎
アリーチェ:石上朋美
ナンネッタ:米田七海
メグ・ページ:北薗彩佳
クイックリー夫人:佐藤みほ
カイウス:及川尚志
バルドルフォ:川崎慎一郎
ピストーラ:小野寺光
合唱:藤原歌劇団合唱部
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
※2月8日(土)の愛知公演の詳細については、劇場ホームページをご参照ください。
藤原歌劇団創立90周年記念公演 『ファルスタッフ』 | 自主事業 | 愛知県芸術劇場
かはら・とし
音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。