グレゴリー・クンデ(テノール) 偉大なキャリアを経ていまが旬

完璧なテクニックに支えられると70歳でなお輝く

バリトンならわかる。だが、非日常的な声域で歌うテノールは、一般的には70歳にもなると声力が失われる。高い音域が歌えない。だから、クンデが聴かせた歌は「奇跡」と呼んでも大げさではない。

「奇跡」の歌声を聴かせたグレゴリー・クンデ (C)Tomoko Hidaki
「奇跡」の歌声を聴かせたグレゴリー・クンデ (C)Tomoko Hidaki

1曲目、ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」のアルフレードのアリアから、フレージングがなめらかでフォームが美しい。ヴェルディらしい凛としたレガートが、強靭(きょうじん)な支えを得た練り込まれた声で紡がれた。

続く2つのプッチーニでさらに驚かされる。「マノン・レスコー」の〝このような美しい女性を見たことがない〟では、女性に見惚れた若者の燃えるような息吹が薫り高く表現され、「トスカ」の〝星は光りぬ〟では、死を前にしての絶望と生への渇望が、抑制された表現で絞り出された。声を張り上げるよりもよほど強い感情が伝わる。

クンデはどんな感情も同じテクニックで表現する。少し陰がある音圧の高い声は、きわめてスムーズに響く。野太い声が楽に発せられている、と言い換えてもいい。だから味つけは自在である。たとえれば、計算が得意な子供が算数や数学の解法に集中できるように、発声が完全だから、色彩やニュアンスを自在に繰りながら、人間感情の深奥を歌に載せることに集中できている。だから、だれにでもなってしまう。レオンカヴァッロ「道化師」の〝衣裳をつけろ〟では、初老の男の悲しみが真に迫った。

クンデは、色彩やニュアンスを自在に繰りながら、人間感情の深奥を歌に載せた (C)Tomoko Hidaki
クンデは、色彩やニュアンスを自在に繰りながら、人間感情の深奥を歌に載せた (C)Tomoko Hidaki

そして、ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」のマンリーコ。前半のカンタービレの気品あるレガートもさることながら、〝見よ、恐ろしい炎を〟の充足した力強さと、輝き渡るハイCには度肝を抜かれた。鳥肌が立ち、体が震えた。三ツ橋敬子指揮の東京フィルは好サポートだったが、音量への配慮がもう少しあるとなおよかった。

後半は打って変わり、ピアノのジョン・G・スミスが加わって、フランク・シナトラやトニー・ベネットらが歌ったアメリカン・オールディーズ。クンデによれば、これらの曲が「自分の原点」なのだそうだ。だから、「フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ」にせよ「君の瞳に恋してる」にせよ、ビートやリズムが体得されている。やわらかく伸びやかな声と相まって、こちらも紛れもない本物だった。

だが、アンコールはオペラに戻った。「誰も寝てはならぬ」。かなりゆったりしたテンポで朗々と歌い上げ、圧巻のハイHを響かせる。楽に歌ってどこにも隙がない。浮かんだ言葉はやはり「奇跡」だった。
(香原斗志)

公演データ

グレゴリー・クンデ (テノール) 偉大なキャリアを経ていまが旬

2月1日(土) 13:30サントリーホール

指揮:三ツ橋敬子
テノール:グレゴリー・クンデ
ピアノ:ジョン・G・スミス
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

プログラム
ヴェルディ:「椿姫」より〝彼女から遠く離れて…燃える心を〟
プッチーニ:オペラ「マノン・レスコー」より〝このような美しい女性を見たことがない〟
プッチーニ:オペラ「トスカ」より〝星は光りぬ〟
レオンカヴァッロ:オペラ「道化師」より〝衣裳をつけろ〟
ヴェルディ:オペラ「イル・トロヴァトーレ」より〝ああ、愛しいわが恋人…見よ、恐ろしい炎を〟
ボブ・クルー&ボブ・ゴーディオ:君の瞳に恋してる
マニング・シャーウィン:バークリー・スクウェアのナイチンゲール
ミシェル・ルグラン:君に捧げるメロディ
アンソニー・ニューリー&レスリー・ブリカッセ:フー・キャン・アイ・ターン・トゥー
ヴィクター・ヤング&エドワード・ヘイマン:恋に落ちた時
ジェローム・カーン&ドロシー・フィールズ:今宵の君は
バート・ハワード:フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン
コール・ポーター:あなたはしっかり私のもの

アンコール
プッチーニ:オペラ「トゥーランドット」より〝誰も寝てはならぬ〟

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香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリア・オペラを疑え!」「魅惑のオペラ歌手50:歌声のカタログ」(共にアルテスパブリッシング)など。「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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