緻密な設計から浮かび上がるヒューマンな音楽
5歳からドイツで育った河村尚子が日本に〝逆輸入〟の形でデビューして20年。全国を縦断した記念ツアーの最後は、ソロ・リサイタルでは初めてのサントリー大ホールのステージだった。公演プログラムに寺西基之さん(音楽評論家)が記した通り、「彼女ほど知・情・意が高度な次元で一体化しているピアニストは稀」だと実感した。
まずはドイツの美意識の根幹にある構造的視点で全曲の構造、作曲家の様式、時代精神などを隅々まで分析した上で、時間とともに変化する内面を掘り下げていくために流れが一貫し、緊張が途切れない。さらにハノーファーで師事したヴラディーミル・クライネフに授かったロシア流儀のヴィルトゥオーゾ(名人)奏法が演奏に燦然とした輝きを与え、すべての音が克明かつ濁りなく奏でられる。上半身はほとんど動かず、脱力の行き届いた腕から手指に無理なく力が送られるので、打鍵は強さと俊敏さを兼ね備える。
バッハ=ブゾーニの「シャコンヌ」は能登半島地震に河村が心を痛め、「祈りの曲」として冒頭に置いた。確かに犠牲者&被災者の痛みの共感(ミットライド)に始まって、励まし力を与え、一筋の光明を示唆しながら優しく寄り添う音楽だった。京都の寺に生まれ、現在はケルン在住という岸野末利加の「単彩の庭Ⅸ」は河村の委嘱新作。適度に前衛でありながら、キラキラ光る音を連ね、倍音の余韻も交え、美しい音の風景が広がっていく。プロコフィエフの「戦争ソナタ」3曲で最も有名な第7番では一転、「ドイツ在住者としてウクライナやイスラエルの情勢を日本にいる時より身近に感じざるを得ない」と語る河村の問題意識が、はっきりと浮かび上がった。それは反戦や平和を声高に主張するのではなく、同じように複雑な時代を生きたプロコフィエフのモダニズムとヒューマニズムの間を揺れ動く音楽の再現を通じ、聴き手の心に訴える行き方だった。
後半はショパン。前半の黒いパンツスーツからシンプルなブルーグレイのドレスに着替え、音色もぐっと柔らかさを増してサロンの作曲家にふさわしい環境を整えた。「3」のナンバーを共有する即興曲とソナタは切れ目なく演奏され、あくまで自然体の感興に委ね、恣意の全くない音楽で深い感銘を誘った。20年の実りは豊穣だった。
(池田卓夫)
公演データ
河村尚子ピアノ・リサイタル 日本デビュー20周年特別プログラム
9月30日19:00(月)サントリーホール 大ホール
プログラム
J.S.バッハ=F.ブゾーニ:シャコンヌ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調BWV1004より
岸野末利加:単彩の庭 Ⅸ (河村尚子委嘱作品)
「ピアノ独奏曲Monochromer Garten(モノクロマーガーテン)IX」
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 Op.83「戦争ソナタ」
ショパン:即興曲 第3番 変ト長調 Op.51
ショパン:ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 Op.58
アンコール
ドビュッシー:夢想
シューマン(クララ・シューマン編):献呈
リムスキー=コルサコフ:熊蜂の飛行
コネッソン:F.K.ダンス
いけだ・たくお
2018年10月、37年6カ月の新聞社勤務を終え「いけたく本舗」の登録商標でフリーランスの音楽ジャーナリストに。1986年の「音楽の友」誌を皮切りに寄稿、解説執筆&MCなどを手がけ、近年はプロデュース、コンクール審査も行っている。