<第32回> ホセ・カレーラス(テノール)

ホセ・カレーラス
ホセ・カレーラス

待ち望まれた「三大テノール」に再び挑む
記録より記憶に残る歌手

 「世界三大テノール」は型破りだった。同じ声域のライバル歌手同士は、ふつうは結集しない。テノールとソプラノならわかる。そこにバリトンが加わってもいいが、テノール3人が並んでもハーモニーにならないではないか。

 

 それでも実現に移されたのはカレーラスのためだった。1987年、キャリアの頂点にあったこのテノールは白血病と診断された。一時は回復不能といわれたが、骨髄移植などを通して九死に一生を得て、翌88年に復帰できた。

 

 快癒を祝うコンサートをローマで行う話が浮上した際、「ひと味違った公演になる」のを狙って3人を集めることを思いついた――。プロデューサーのマリオ・ドラディ氏からそう聞いた。

 

 とはいえ、ドラディ氏も成功する自信はなかったそうだが、1990年7月7日に行われた公演は、終わると革命のような勢いを得た。一晩で8億人が視聴し、CDが1600万枚売れるなど、クラシック音楽界の記録を大幅に塗り替え、私自身もその波にのまれた。

 

 私がカレーラスの歌唱をまじまじと聴いたのは、この「三大テノール」の映像が最初だった。ほかの二人のようにはレガートを歌えないのが気になるといえば気になったが、白血病の病み上がりだから仕方ない。それよりも、えもいわれぬ甘い声の魅力と情熱的な歌唱、心の叫びに打たれた。

欠点も魅力になる稀有な歌唱

 その後、カレーラスが80年代に歌ったオペラを「ドン・カルロ」や「アンドレア・シェニエ」など、さかのぼって鑑賞し、闘病前の熱唱に感銘を受けた。艶やかな声と豊かで気高い響き、若々しい情熱。それらが相まって観ながら役に没入させられるのだ。

 

 叫ぶような高音には賛否があっても、カレーラスの歌唱には、多少の瑕疵(かし)がむしろ魅力に転じるような味わいがあった。

 

 だが、70年代のみずみずしい声と自然な声の運びに触れ、キャリアを積むのを急ぎすぎたことを少し残念に思いもした。とくに指揮者カラヤンに魅入られた影響は大きかった。持ち前のリリックな声には負担が大きいドン・カルロ役や「アイーダ」のラダメス役などを、大指揮者に推されるままに歌い、自然で伸びやかな声と調和のとれた歌唱フォームが少し崩れた点は否めない。

 

 それでもカレーラスは魅力のほうが上回ってしまう。白血病も声には打撃になったが、壮絶な闘病を通して、歌唱の精神性が深まったことは疑いない。

 

 だから1998年10月、ボローニャ歌劇場日本公演で歌った「フェドーラ」のロリス役なども圧巻だった。この公演では、飛ぶ鳥を落とす勢いだったホセ・クーラも同じ役を歌ったが、カレーラスの圧勝だった。恍惚(こうこつ)としたような役への没入は、楽譜通りの正確さを求めるなら少し外れるところがあっても、型通りの評価に優る魅力になった。

 

 記録よりも記憶に残るテノール。そしていま、「パヴァロッティに捧げる奇跡のコンサート」と題して、2023年1月26日(木)に有明・東京ガーデンシアターで、再びドミンゴと一夜かぎりの夢の公演が実現する。あの「型破り」を体験できる、おそらく最後のチャンスとなるだろう。

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香原斗志

かはら・とし

音楽評論家、オペラ評論家。オペラなど声楽作品を中心に、クラシック音楽全般について執筆。歌唱の正確な分析に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)。ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」、「モーストリークラシック」誌に「知れば知るほどオペラの世界」を連載中。歴史評論家の顔も持ち、新刊に「教養としての日本の城」(平凡社新書)がある。

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